静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(4)

 静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(4)

中国の儒教の文献を見ると静坐について書いたものが実に多いが、そのやり方についてはほとんど触れることがない。それは儒教で「禅宗は座り方の練習をしている」と批判することとも関係している。確かに結跏趺坐は容易にできるものではない。日本の禅の修行の第一は坐法の痛みに耐えることにあるともいう。儒教はそうではなく精神的なものを涵養して人が本来持っている「性」の働きを開くことを目的としているのであり、坐法などの瞑想テクニックにこだわるべきではないと主張している。しかし、静坐をするには何らかの方法がなければやり難い。それを説明すると坐禅と大差の無いものになってしまう。こうした矛盾があるので儒教関係の文献ではほとんど坐法の説明がないのである。日本でも近世あたりには朱子学や陽明学を研究する人たちの間では静坐がよく実践されていた。ただ日本における儒教の伝来は書物を通してであるために静坐についてもそれぞれが考えて行っていたようである。近世の儒家の伝統は近代になって一旦途絶えて、アカデミズムの中で復活することになる。そこではすでに静坐の実践はまったく顧みられなくなってしまう。


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