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三車秘旨(91)道情詩詞

  三車秘旨(91)道情詩詞 「満江紅 第二体」 尊き人に問う 修仙、修仏とは何かを 儒書に精通し、再び君に見えん 養性、存心は妙道であり 修身、立命の真訣を伝う 浩然の中に養えばつまりは還丹を得て 龍に乗りて出る 天の運びは泰らかなれば 賢者が生まれ 統治は正しく国が富み 優れた臣下が出る 我が友の怠惰なるを笑う どうして君にすばらしき玉を献じる必要があろう 天下の功名はここに尽く 世間の波風の限りなきを嫌い 養生をする山林に行くのが一番 ただ早くにここに至れよ (解説) いまだ世俗の名利を求める友に修仙、修仏の妙道、真訣である「玉」を献ずる時ではない、として早く思い切って俗世の縁を切ることを勧めている。この社会が天の運びのままであれば何らの問題もない。しかし現実にはそうはなっていない。そうした社会に栄達を求めても、我が手に残るのは虚しい思いだけとしている。友の「怠惰」を笑うのはただ社会に流されているだけではいけないと鼓舞を促しているわけである。

三車秘旨(90)道情詩詞

  三車秘旨(90)道情詩詞 「満江紅 第一体」 手を打ち大きな声で歌う 世の人の命の灯火のご如くなるを嘆く 虚しき波乱の人生に 死まで終ることなく 名利を求める場で空しく戦う 優れたる多くの詩書に丹訣を求め 何時の日にか海や空に遊ぶかと師に問う 我が説くところを信じて それを味わい家から出ることなかれ 思いは捨て難く 情は絶ち難いもの 名のとらわれを解き またあばら家へと帰る 黍や豆の種を受け継ぎ 喜びて緑なす野を耕す 山という「樽」に長生きを助ける黄菊を植える 我が白髪となるを待ち まさにそれを飲もうと思う (解説) 絶ち難い世俗への重い、またそれは煩わしいものでもある。相反する気持ちの中に人生の時間だけが過ぎていく。なかなか人はそれまでの人生の流れを変えることはできない。ましてや断ち切ることは不可能といえるのかもしれない。そこで中国では社会の変化を利用して自分の生き方を変えることを教えている。これがよく分かるのは『封神演義』である。同書では殷周革命を利用して神々の世界の再編成を行おうとする。つまり外的な変化を内的な変化に利用しようとするわけで、これはまた外的な変化がなければ内的な変化を促すのは難しいということでもある。静坐でも形を整えるだけで意識が変化すると教えている。

三車秘旨(89)道情詩詞

  三車秘旨(89)道情詩詞 「重陽に雷にあいし養生家」 重陽の天気は細き雨 養生堂の中まさに大杯を上げる 酒に酔うや 人に酔うや覚ゆることなし めでたき言葉をして待つ客はよく知る人でなく ただ君と我との心が通じるのみ 膝を詰めて腹蔵なく話せばみ思わぬ良き言葉も出る 何時の日にか共に白鶴に乗りて 青城山の下に霊芝を求む (解説) 「雷」は陰陽が回転することで生じるものであり、それは万物を生むとされている。易では震卦とする。重陽に雨が降ることで「陰」が生まれて陰陽が交わって雷が生じたということである。陰陽が交われば当然、生成の働きが生まれることになる。青城山は神仙道の聖地である。

三車秘旨(88)道情詩詞

  三車秘旨(88)道情詩詞 「重陽の後に諸弟子を招いて蟇頤観に遊ぶ」 虚空に緑が鬱蒼と 手を打ち、歌いし歌声は空の彼方に 願いたるは人々の長寿 仙の泉の橋には老いたる人の香りあり (解説) 多くの人は老いて初めて養生を考えるようになるが、それでは手遅れである。神仙道では「長寿」とはその人の生き方そのものであるとする。そうであるから、人生が終わろうとする頃になって「長寿」を得ようとするのは好ましいとはしない。神仙道で「長寿」は完全に「自然」のままで居ることができれば達成されると考える。それは「天地」と等しくなることであるからである。つまり「長寿」を求めるとは自然と一体となることであり、それは無為自然であることでもある。

三車秘旨(87)道情詩詞

  三車秘旨(87)道情詩詞 「暁に起きて大悟す」 万事は思い通りにはならないもの 帰り来たってまた詩を吟ず この身ひとりが善ければ良し 吾が道はいまだ尽きず 早春に燕が来る 夜寒く鶏が鳴くこと遅し 暁の星は椀のよう 天の兆しを知る人少し (解説) これは明けの明星を歌ったもので、明けの明星はアジナー・チャクラの霊光の象徴である。「天の兆し」とあるのはそうした霊的な意識が覚醒する兆しがあるということ。天地自然にしても天変地異ということはある。そうした中で生き抜いていくには天機を知る必要がある。この天機を知ることのできる感覚はアジナー・チャクラの覚醒によるとされる。莊子の「虚室生白」もこのことを言っているのであり、これが開かれると吉祥が止むことがないと莊子も述べている。「虚室生白」は「虚」を感得した部屋に白の霊光が生まれるということである。

三車秘旨(86)道情詩詞

  三車秘旨(86)道情詩詞 「麻碧城氏と衰えたるを蘇るを詠む」  玄が尽きればつまり子(ね)に出会う 冬の初めに早き春を見る 一陽また来るより 万物は次第に新たなり 雪の山河は輝き 霜が降りることもある 寒きなれば良き果も熟す 橘の酒の露に神は全かり (解説) 「玄が尽きれば」とあるのは仏教の中陰のようなものをイメージすると良かろう。人が生まれる前の根源の混沌たる状態を「玄」としている。そこから人が生まれるのを十二支の「子(ね)」が始まるとしている。子の刻は夜から朝に向かう時であり、これより陰から陽へと転じる。つまり夜の死から昼の生へと転じると考えるわけである。これと同じく「一陽来復」を迎えるためには、先ずは「玄」への悟りがなければならない。これが「煉己」である。「橘の酒」とはいうならば命を養う酒で、橘の実は古来よりそれを食することで不老長寿が得られるとされていた。

三車秘旨(85)道情詩詞

  三車秘旨(85)道情詩詞 「大丹には炉鼎を用いるとされるが、これは煉薬、温養を喩えていったものである。俗人はそれを知らないで、いろいろとまちがったことを考えてしまう。それはあまりに文字にとらわれたためである。ここで私は戯れで炉鼎のことを述べてみよう。取るに足りないことに拘泥している人はよく考えてもらいたい」 兌金十四両は 神仙の鼎とするに足る そこに癸(みずのと)の中の鉛を取る 我が身中の損したるを補い 紅羅は性の真を養う 丹房は器と皿を好むも 功成れば尽くこれらを捨てる 共に修行をする人をよく考え選ぶに 一東家郎あるや 妙年にてまさに修行を初め 坎離の転倒を転じ 性と情とが共に整う これ吾が霊父母たり 同じく洞天に入りて隠る 道は一家の仙となる 大羅(神仙の世界)はすぐ近くとなる (解説) ここでは炉鼎を男女として、その交わりにより丹を得ようとする誤った教えのあることに注意を促している。「炉」は下丹田でここでは「煉薬」を行い。「鼎」の上丹田では「温養」をする。多くの正しい丹書で「炉鼎は男女ともにある」としていることを見ると誤った説が広く行われていたことをうかがわせる。兌卦は「陽陽陰」で、五行では「金生水」であるから、兌金からは癸(水の弟)が生まれることになる。つまり乾土(陽陽陽)から兌金(陽陽陰)そして癸は坎水(陰陽陰)となるわけである。坎つまり腎の一陽を開くことで炉が開き、心の鼎で変容を促す「丹」を煉ることの可能となる。

三車秘旨(84)道情詩詞

   三車秘旨(84)道情詩詞 (解説) 修行において色欲は否定されるべきことを説くも、古の仙人たちは必ずしもそうではないとしている。本来、神仙道には色欲を禁ずるということはなかった。何事においても神仙道では過度であることを宜しくないとするだけである。色欲も過度であってはならない。それは否定においても肯定においてもである。仏教のように色欲を過度に否定しても意味がない。過度な否定はかえってこだわりを深くしてしまう。一方、房中術のような肯定も好ましくはない。自らの「性」によく問うて「適度」であるところを常に探って修行を進めることが肝要である。

三車秘旨(83)道情詩詞

  三車秘旨(83)道情詩詞 「色欲というもの」 古今稀なる大恥知らず 色を愛すること、花を愛するが如し 古今稀なる大愚か者 貪欲であること果てなし 色に迷えば必ず損なわる 狂気が逆巻き愚かさが花咲く 世の風潮が色に留まれば ややに華やかさがあるものの 放蕩子は欲簿の赴くまま 類を求むるは豚に等し 色欲を持って修行をしようとするは たば滅びの嘆きのあるのみ 美しい娘と修行をしようとするも 絶欲は修丹の砂(もと) おかしきかな張果老 妻を持ち子を設けた 幻であろうか伊用昌 妻と朝を迎えた 二人の賢者は共に色を好みし こは一体どうしたことか 至人は無欲で 淫欲は根絶されているのや否や 我は古の仙人を愛し 仙女を家に迎えん 修行者は欲を絶たねばならない

三車秘旨(82)道情詩詞

   三車秘旨(82)道情詩詞 (解説) 「不老不死」は神仙道のひとつの源である。しかし結局は運動をして(導引)も、水銀を飲んで(丹薬)も、天地の神々に祈っても、結局は不老不死を達成することはできなかった。初めに不死となることは神のような架空の存在以外には有り得ないことを述べて、次に老人の生き方について放銃であれば心身ともに疲弊してしまうとする。そうであるなら静坐をして(門を閉じて)、自らの内面を養うことで、少しはましな生き方ができると教える。

三車秘旨(81)道情詩詞

  三車秘旨(81)道情詩詞 「人と不死の術を談じる」 古より不死の神あるも 不死の身はなし 不死を得たる神は つまりはこれ仙人 人死せば神も滅ぶ 仙死すも神は存す 神の滅ぶと存するには天地の差あり 仙人と凡人は等しく論ずること能わず 世に老人を養おうとするなら また多くの春を経験し その老いを極めるべし わけも分からず性の真を失い さかんなる貪欲に溺れ 心はまるで惚けたるよう いまだ死せざる先に身は乱る 前世にどのような原因を作ったか知らず また来世に期することもない いまここに落ちぶれ どうして卓越した不死の術を知り得よう 門を閉じて元神を煉り たとえ死を免れること難くとも 霊性はただ俗塵を超えて 天地の間を自由に歩み 草笛を吹いて呂洞賓に従う

三車秘旨(80)道情詩詞

  三車秘旨(80)道情詩詞 「修丹を吟ず」 按摩と導引の術は 逢い易くして成り難きもの 金丹の大道法は 逢い難くして行い易きもの これを行うことのまた易からざるは 長生きを実践すること 天地に習って 性と情を鍛煉す 性と情とが交わって 空なる谷に声が響く 成就すれば変化あり 功夫は静と清にある 心清ければ気は静か 地下には雷が鳴り 雷が鳴れば天地が震える 二候に真精と出会い 龍虎が一戦を交えれば 戦場は大いに安らか 三陽は万竅を開き 採薬は中営に至る これより十ヶ月 文火は胎児を養い 泥丸の頂きを破って (仙人の住む)玉京へと飛び立つ (解説) ここでは「養胎(あるいは胎養)十ヶ月」の教えを述べている。「性」は先天、「情」は後天を象徴しており、これらが交わること、つまり先天後天が合一することで「空=虚」への悟りが得られる、これが煉己である。「地下に雷が鳴り」とあるのは、腎の一陽が開くことで、二候は腎のことである。龍は心、虎は腎で「一線を交えれば」とあるのは心と腎とが交わりを持つことである。三陽は三丹田、中営は中丹田である。中丹田で採薬をするのは神(上丹田)と精(下丹田)が融合をしているからである。こうして先天後天、心腎、神精がひとつになった状態を保つこと「十ヶ月」で胎児(本来の自分)が見いだされ、頭頂の泥丸から体外に出るとは後天の束縛を超越することを示している。この「十ヶ月」というのは十ヶ月で子供が生まれることから新たな自分が誕生する期間を象徴的に示すもので必ずしも十ヶ月に限るものではない。

三車秘旨(79)道情詩詞

  三車秘旨(79)道情詩詞 「虚空を吟ず 三首」 行うは安く、得るは難い 虚空を知ることなく丹は得られず もし丹を練る鼎を安定させるところを求めるならば いま居るところこそ広きこと天に比ぶ これを好むは易く、これを楽しむは難し 虚空に丹を作ること無ければ どこに薬を得るところを求めようとも その壺の中こそが仙人たちの居るところ 得るは易く、守るは難し 虚空に丹を結びこと無く どこに立命のところを求めようと 頭を起こして尾を噛んで一団の円となるのみ (解説) 二首芽は「壺中天」のイメージを下敷きとしている。かつて費長房が一日の商売が終わると費は自分の持っている壺の中に入ってしまう。その中には夢の別世界があったとされる。つまり仙人の居るところは「壺」の中であることもあるのであり、それを知る人はそこに入ることができるが、それを知らない人はすぐ近くでも立ち入ることはできないのである。この三首で述べられているのは修行の環境は自分がある境地に入ればどこでも整うものであるということである。

三車秘旨(78)道情詩詞

  三車秘旨(78)道情詩詞 (本文) 「養心を吟ずる」 怨欲を掃除して捨ててしまえば 心が安らかであれば身も安らか (それは)月は清らかな光を放ち水面に映る  風は涼やかで欄干を巡る(よう) 仏書に精通すれば煩悩は消え 仙語を得れば深い静坐の境地に入る 長く自分の心を腹に収めて 独り暮らし、独り坐り、独り楽しむ (解説) 怨みの心を捨てて心身が安らかとなることを述べている。それは「独り」を楽しむことを知ることでもある。この「独り」というのは自分自身の価値観を持ってということであり、単に人里を離れて暮らすことではない。たとえ山の中で暮らしていても、遊びたいとか、他人から褒められてたいとかそうした欲望を持つため、それが叶えられないと怨みの気持ちが生ずることになる。

三車秘旨(77)道情詩詞

  三車秘旨(77)道情詩詞 (本文) 「心神篇」(以下、雑体詩十三首) その心は明らかなれど そを用いれば乱る その神は冥冥たりて その体はひたすらに安らか (何もしないで気が自ずから凝まる) これは古人の不神の神をして神とするもの (解説) 「心神論」では「不神の神をして神とする」ことが説かれている。神は心の働きを司るものであるが、それを意識しないことが本来の心の働きである「性」を開くことになるのであり。そうすれば自ずから道に外れるようなことはなくなる、と教えている。ただ自分の心の働きが本当に「性」によるものなのか、あるいは後天の欲望によるものなのかの判断は難しい。そこでいろいろな古典を学んで、常に自分は道に外れていないか省みなければならない。これを居敬という。「つつしみ」がなければ結局は欲望のままに暴走することになる。

三車秘旨(76)道情詩詞

  三車秘旨(76)道情詩詞 「収心法の道と情についての自説」(3) (本文) 私は今まで井戸を掘るようにひたすら修行すること三年 少しばかりの成就を得た 誰が知るであろうか道に反しては時の運を得ることのできないことを 家業は衰え、英雄は短気とな(って命を失うことにな)ることを 丹を練るにはこうしたことに係ることなく 朝から一日、風の吹くまま雲の行くまま、ただに静坐をして海山の彼方に遊ぶだけ (解説) 家業はそれをただ続けていれば家は繁栄するものであり、英雄はその存在自体が人々の尊敬を受ける。これらは世に優れたものの例えとして挙げられているのであるが、そうしたものであっても「道」を見失ったならば存在して行くことができなくなってしてしまうと教えている。実は「道」を踏まない方が短期的には有利であることも多い。自分の才覚を過度に頼むような人は、「道」を外れて利益を得ることもあるが、結局はその「才覚」により自滅することになる。そうした方法は失敗するまで止められないからである。

三車秘旨(75)道情詩詞

  三車秘旨(75)道情詩詞 「収心法の道と情についての自説」(2) (本文) 内功を行い、呼吸を整え、丹田に気を鎮めて、真息を守る 清浄、自然で、杳冥の境地に入り (汚れたものを浄化するすばらしい火である)祥烟を引き出す 「沖(中庸)」を我が絳宮に得て気の動くを覚え 酔ったように気持ちよく体のどこもかしこも綿のように柔らか これはまさに我が「降龍」の真訣「斬蛇」の手段 修行者の間では代々伝えられて来たもの この天機を漏らしてもらうに金銭は必要ない 裕福な修行者は贈り物をして入門するも良かろう 貧しい修行者は縁を得て門に入ることも良いであろう 贈り物をして師事するもの正しいし 縁によって教えを受けるのも清らかな道 (解説) 「降龍」も「斬蛇」も同じ意味で、心を鎮めて「性」を開くことである。こうした内的な事柄の伝授は禅宗に「拈華微笑」の教えがあるように、分かる人でなければ幾ら教えても微妙なところには理解が及ばないものである。拈華微笑では釈迦が花を手にした「機」に摩訶迦葉が何かを感じて微笑んだわけで、花を手にした行為そのものと悟りを結びつけるものはないが、その行為の呼吸、間合いが悟りを示すものであることが釈迦と摩訶迦葉の間で共有されたということである。修行者はただ日々に静坐をして、教えを受けることのできる「機」の熟するのを待つより他にない。いくら優れた師でも弟子の準備ができていないと教えを授けることはできないのである。

三車秘旨(74)道情詩詞

  三車秘旨(74)道情詩詞 (本文) 「収心法の道と情についての自説」(1) もし大羅仙(天帝の側近)となろうと思うなら どうしても心を煉らなければならない 功名を求めるような乱れた思いを持ってはならない 利欲に引かれるようなことはあってはならない たとえ一筋でも打算の心が生じたら 烈火をして焼き尽くし「性」を顕さなければならない ひとつ起これば、ひとつを断ち ただひたすらに欲望を減らし けっして増やしてはならない その心の猿のように制御できないことを恐れ その意の馬のように暴れることを恐る (解説) 収心法とは一種の集中法であるが、殊更心を動かないようにさせるものではない。気ままに心は働かせて執着しないのが収心法である。多くの瞑想法では心を一点に集中させるためにいろいろな工夫をするが、なかなか「雑念」を断つことはできない。それは人の心はそれが活動していたならば、いろいろな思い(雑念)が浮かんでくるものであるからに他ならない。そうした心の自然な働きである「性」を知ることが重要なのであって、強いて一定の形に押し込めるようなことは好ましくない。

三車秘旨(73)道情詩詞

  三車秘旨(73)道情詩詞 (本文) 「自らを語る」 俗世を離れて詩を作る 二十四篇 心を現す 長乙の山に居てすることもなく 魚鼓を歌うこと一声 これ一篇の詩をなしたりき (解説) 李涵虚が自らここで紹介した二十四篇の詩作について語っている。「魚鼓」とは道観で歌われていた教えを説いた歌で、多くの曲があり、民間の芸能にも影響を与えたとされる。中国では詩は日本いう「詩吟」のように朗唱されることが多い。道家でも儒家でも、道の詩を吟ずることで心身が浄化、涵養されるという。あるべき言霊の響きに包まれることで、心身の波動を調えることができるというのである。

三車秘旨(72)道情詩詞

  三車秘旨(72)道情詩詞 (本文) 「またどの仙師に教えを受けるべきかについて」 元の遺民で三豊と号すは どこへ行ったか行方知られず 承平の頃に世に出ていて 気ままな旅をしたのは王子喬と赤松子 (解説) 「元代の遺民」とは元が終わり明の代になっても、明朝に服することを良しとしなかった張三豊の気概を示すものである。承平は433年から460年の間で、王子喬と赤松子は「松喬」としてよく知られた「仙人」である。張三豊も王子喬も赤松子も、いろいろな時代に「出現」している。「張三豊全集」という分厚い本もあるが、そのほとんどは霊的なレベルで示された三豊かからの教えをまとめたものである。要するに時間や空間を超越しているのが「仙人」であるから、特定の「師」に自らを同化する必要はないのである。また時空を超越している「仙師」は時機が熟せば自ずから巡り会えるものとされてもいる。

三車秘旨(71)道情詩詞

  三車秘旨(71)道情詩詞 (本文) 「仙道を生きるとは何かを問おうとするに、養生の妙訣は多くあるが、平時の心得については知ることが無い。はたしてどの師、どの仙人に学ぶべきか」 (呂)純陽処士は偉大なる陳搏を師とし 五代(王玄甫、鍾離權、呂純陽、劉海蟾、王重陽)は超俗の仙人であった 簡板(文字を書くための板)や魚とりの筒には世俗を離れた楽しみがある 住んでいるところに乱れる俗世を避ければ 自然に安らかたり (解説) 呂純陽は呂洞賓として知られる人物で、数多い「仙人」の中でも最も人気の高い人物とすることができる。また今でもいろいろなところで「出現」をして道を説いている。陳搏(たん)は陳希夷としても知られているが、易や占いの相法にも通じていたとされている。五代とあるのは「全真五祖」と称される全真教の中核となる人物で、これらの人たちは、著作を残すなど世間的にも見るべき「活躍」をしているが、その心は超俗にあったと教えている。殊更に「世間」を避けようとするのも「世間」にとらわれているのであり、「住んでいるところに乱れる俗世を避け(る)」ことこそが重要なのである。

三車秘旨(70)道情詩詞

  三車秘旨(70)道情詩詞 (本文) 「鼎を換えて胎を移して、子供あるいは孫を生むとはどういうことか」 大道はもとより高きに歩む 還丹成就して仙人・曹(文逸)と出会う 年々の火候を門戸に添える 眼を蓬山に放ち、意気盛んたり (解説) 曹文逸は12世紀の頃の女仙人で『霊源大道歌』は神仙道の高いレベルを示すものとしてよく知られている。「鼎を換えて胎を移して」とあるのは「鼎=男」や「胎=女」ではなく、内的な男性原理(陽)や女性原理(陰)が修行には用いられるということである。「子供」「孫」は陽神とされる自分の「子供」であるが、実は「本来の自分」である。神仙道はひとつには錬金術の金属の変容という化学変化から来ている「丹」の系統があり、これからは「変容」が見いだされた。また健康法から来ている導引からは自然と一体となること、道家に代表される隠逸の思想家からは価値基盤の多様性などの影響を受けてシステムが構築されて行ったのである。

三車秘旨(69)道情詩詞

  三車秘旨(69)道情詩詞 (本文) 「青娥と会って、聖胎に生まれるとはどういうことか」 青娥は幼き時に修行を好んでいた 孤陰の体は生ずることなし 洞房(新婚夫婦の寝室)にて出会って後 床を同じくすること十ヶ月にして「胎嬰」が生まれる (解説) 青娥は女仙人である。また次の曹文逸は有名な女仙人で、清浄派の主要な人物とされている。清浄派は仏教の影響を受けて性的な交わりを良しとしない一派である。つまり、この詩は一見して性的な交わりのことを説いているよであるが、実は内的な陰陽の合一を教えていることをこれは証しているのである。最後の「床を同じくすること十ヶ月にして『胎嬰』が生まれる」とする「胎嬰」とは丹を得るためめの基礎である「聖胎」ができるということで、先天の陽気、腎の一陽が開かれ育つことをいっている(これを十月胎養という)。こうしたことはあくまで静坐の中で行われるのであり、性行為とは何ら関係はない。

三車秘旨(68)道情詩詞

  三車秘旨(68)道情詩詞 (本文) 「殺中に生有るとは何か」 鉛を汞へと投ずるは害の中の恩のきわみ 汞が鉛を受けると死の内に生とかかわる 妙宝とは、とらわれのないところに還るが如きもの 神仙の行うこと円満であることなし (解説) 一般に神仙道の修行は「逆修」と称される。無為であり、自然であることを重視する神仙道において「逆修」の道をとることは矛盾しているように思われるかもしれないが、「順 」を知ろうとするのであれば、あえて「逆」が修せられなければならないとするのが神仙道の修行なのである。ここでも「恩」を知ろうとするのであれば「害」から入らなければならない、「生」を知るには「死」が分からなければならないとしている。「円満であることなし」とあるのは、常に反対のことを考えて一定の形に留まることのないことをいう。

三車秘旨(67)道情詩詞

  三車秘旨(67)道情詩詞 (本文) 「相接長生とは何か」 汞性は軽く浮き日を得て飛ぶ 鉛情は重く沈み食するに違うことがない 修丹は情を得て性に帰すれば 青鸞に乗って太微(北斗)へと入らん (解説) 汞は腎であり、その一陽は機が熟せば上昇して心へと入る。鉛は心であり、その一陰は下降して腎へと入る。「情」とは喜怒哀楽などの表面的な感情で、それは「性」に由来する。「性」は仁、愛、慈などで示されるような本来的な心の働きのことである。もともと「情」は「性」と一体であるから相手を傷つけるような感情は生まれないのであるが、人は後天的に身につけたいろいろな誤った認識によって、本来の「性」とはかけ離れた心の働きをするようになっている。そうであるから「情を得て性に帰す」る修行をしなければならない。「青鸞に乗って太微(北斗)へと入らん」の北斗は長生きを現すもので、自然と一体となって生きる「仙人」となるということを示している。