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三車秘旨(60)道情詩詞

  三車秘旨(60)道情詩詞 (本文) 「出家の人は、煉精生気の後にもいくらかの境地の深まりがある」 ひたすら気を泥丸へと運ぶ しだいに甘い唾液が出てきて舌の端を潤し 三丹田を浄化して百脈を通す 自然に精が養われ生命の根源(谷神)が安んぜられる (解説) ここでは「煉精生気」とあるが「煉精化気」と同じである。「生気」は特に生命力の高まりが生ずるもであるが、これが一転して性欲の方に向かうと「練精生気(化気)」の功を成就うすることはできなくなってしまう。そうであるから「出家の人は」とあるのは性欲のある程度の節制が必要であるということを示すために他ならないが。こうした境地に入る前に「杳冥」や「虚空:へ悟りを得ておく必要がある。こうした境地を経ることがなければ次の三丹田の浄化などには進めない。静坐において過度の禁欲は必要ないが、自然に心身のコントロールがなされて本来あるべき状態を知ることが重要とされる。

三車秘旨(59)道情詩詞

  三車秘旨(59)道情詩詞 (本文) 「第三に重要なこと。練神了性」 仙気は静の中から生まれるも 俗世のことを知らないわけではない 中庭に坐すこと三月 ややに修行の深まるを覚える (解説) 第三の段階は煉神還虚と称されることもあるが、ここでは「練神了性」とする。「性」とは本来の自分ということでこれを「煉己」とすることもある。三月とあるのは百日築基とされるように三ヶ月も静坐をすれば意識を内に向けることに一定の習熟が得られる。これを「静」を得るとすることができる。神仙道の修行はこの「静」を得たことから始める。

三車秘旨(58)道情詩詞

  三車秘旨(58)道情詩詞 (本文) 「戴二に重要なこと。練気化神」 神と気が共に杳冥へと入る ここに空なるところ真経を唱えるを聞く 五方より五気が来たる 道に参じて神の生ずるは仙への入り口 (解説) 杳冥とは「玄」のことであり、「虚空」のことでもある。煉精化気では「気」が虚空へと入ったが、この煉気化神では「神」も虚空へと入ることになる。これは修行の方法へのこだわりが無くなる「気」のレベルから、修行をするということそれ自体へのこだわりが消える「神」のレベルに入って行くわけである。ただ日々の実践として静坐を続けることでいろいろな発見がある。心身の状態は日々変わるので、毎日同じことをすればその変化を容易に知ることができる。

三車秘旨(57)道情詩詞

  三車秘旨(57)道情詩詞 (本文) 「第一に重要なこと。練精化気」 陰キョウ(会陰)の脈の上に気が漂う まさに真元はここにある これを虚無へと入れて気を練れば (仙人の居る)遥かなる蓬莱の島へも通じ得る (解説) 周天において初めに会陰のあたりに陽気を集めることを述べている。虚無へと入れるとあるのは最終的に周天は自然に巡るものであることを教えるためである。意識によって導かなくても自然に周天のルートが開かれる境地に入ることが重要なのである。静坐においては初めにある程度、意図的な練習をしてそれからそれを脱する方法もあるし、初めからただ坐るという方法もある。5分ほどでも毎日、静坐を実践するのがひどく苦痛であればある程度、テクニカルな方法を用いるのも良いであろう。

三車秘旨(56)道情詩詞

  三車秘旨(56)道情詩詞 (本文) 「修行の人の優れたるは無の中から有を始めに得る」 我が家の丹法は神仙の住む島から出ている これは虚無より始まり起こって 無形なることを恐るることもなく 無の中より根本を問うを要す (解説) 「虚無」から出てくる「根本」とは先天真陽の一気とされるものである。先天の中にある真陽の一気は祖気とも称される存在の根源をなす気であると考える。これが後天ではなく先天にあるというのは、だれもそれに触れることができないところに有るとするためであり、この「気」は見かけとは関係なく誰にでも平等に存していることをいうためである。そうした意味ですべての人は平等であり、すべての存在は平等であると考えるのが荘子の万物斉同である。

三車秘旨(55)道情詩詞

  三車秘旨(55)道情詩詞 (本文) 「修道の人に道心の生まれるのは何処」 風の吹く泉に緑なす松と竹 いまだ平湖から十里ほどの平湖洞には及ばないのに 月は寒空にあって我が心も冷えて水のよう たちまちに冷えた心に清涼を感ず (解説) 平湖洞は洞天福地と称される修行に特に適した場所である。そうした特別な場所に居なくても自然の中、心が澄んで来ることを詠っている。ここで述べられている月を見た体験は一種のピーク体験(至高体験)である。こうした時の気持ちを充分に味わうことも大切であるが、それに捕らわれ過ぎるのも好ましくない。特定の「場所」にも、特別な「体験」にもあまり拘泥してしまうと本質を見失うことになる。

三車秘旨(54)道情詩詞

  三車秘旨(54)道情詩詞 (本文) 「修真の人は一点の凡心も生ずることはない。ここに我の語るを聴け」 山や泉の濁れるに出て山の清きにある 往時を悔いて遠くに赴くの詩を賦す たちまちに僅かでも華やかなことを見れば 俗世の忘れがたきを知るのみ (解説) 今は俗世を離れて清らかな生活をしているが、華やかな俗世を見てしまうとまたその楽しみが思い出されることのあることが語られている。静坐では特に守るべき決まりというものはない。俗世を否定するものでもない。本来は「凡」も「聖」もないのが静坐の世界である。修真の人は「凡」心の生ずることが無いというが、自分は修真の修行をしているが往々にして「凡」俗の心が生じるという。静坐はこれで良いとする。無理に俗世を否定をして凡心に捕らわれるよりは、時には凡心を満たすようなことをしても構わない。

三車秘旨(53)道情詩詞

  三車秘旨(53)道情詩詞 (本文) 「人として生まれる。これは良い。しかし明らかに悟るべきことがある」 永遠なる時間の中で人として生まれる。 どうしてか、そのわけを知れ 呂純陽祖師の心使いの深いこと それはこの身を大切にすること (解説) 仏教では輪廻転生を認めるので、人として生まれて仏道を修することのできるのはひじょうに幸いなことと教える。神仙道には必ずしも輪廻転生といった考え方はないが、ここではそうしたものを前提としているようである。肉体を大切にすることは神仙道では教えている。往々にして国家や社会はいろいろな理由をつけて人々の肉体(生命)を奪おうとする。そうしたことから脱するためには日頃から一元的な価値観に惑わされないように内省の修行をしていなければならない。

三車秘旨(52)道情詩詞

  三車秘旨(52)道情詩詞 (本文) 「またこの世に生まれたことを嘆く」 母の胎内に入り魂の入るを持つ 尊き父母、尊き恩 我が顔貌は父母に似る やさしく我を抱く(父母は)暖かな笑顔をして (解説) 人は何かしらの「俗世」とのつながりがなければ生きては行けない。役行者に前鬼、後鬼という夫婦が居て生活の世話をしていたように、山奥で修行をしようとするならばそれをバックアップしてくれる人が居なかればならない。そうでなければ一日が身の回りのことに追われて修行どころではなくなる。こうした誤りは俗世を否定することから生まれる。俗世はそれを否定するのではなく、それを超越することが重要である。偉大なる仙人は市井に隠れているという。なんでもない「普通」に見える暮らしをしている人こそが「俗世」を超越しているかもしれない人なのであり、いかにも修行をしているといった人は「俗世」の否定という捕らわれの中にあるのかもしれない。

三車秘旨(51)道情詩詞

  三車秘旨(51)道情詩詞 (本文) 「俗世に生まれたことを嘆く」 私は覚えている前世は清らかな世界に居たことを あらゆるところに自在に赴く どうして西方(の死後の浄土)を願うことがあろうか 山を行き海を行くこと思いのままなれば (解説) この世では肉体を持つゆえにいろいろなものに捕らわれてしまう。家族に捕らわれ、社会に捕らわれ、国家に捕らわれ、天下という時代性に捕らわれている。これらはつまるところ肉体を持つことによる。家族、社会、国家の捕らわれから脱しようとして山奥に籠もったとしても肉体の捕らわれから脱することはできない。これらからある程度、脱するには心の捕らわれを薄める他にはない。

三車秘旨(50)道情詩詞

  三車秘旨(50)道情詩詞 (本文) 「道情詩」 俗人の道は人々の好むもの 我の道は人、心鎮まらずして了(さと)ることなし 我が道にて富貴は心に係ることもない また朝に夕に’(天界の)仙島へと登るを想う 我が家に虚を涵(いれ)る道人(涵虚=自分)とはかくの如くし 世に出れば非凡を求めて、生き方を誤る  小さき頃より書を読み 長ずれば煩悩に塗れたるこの身 文名を上ぐるを想う しかしまた仙界へと飛び立たんと想も でき得べきこともなし 想うにこの世には決まり(道)のあるもの 幸いにも破れ屋がここに一軒 修行の友が三人 そぞろに過ごして 俗塵の外に超える 喜び笑いて 迷いの世界の外に遊ぶ 秋が終わり冬が始まる 山の中には何事もなく ただ一壺の菊花酒を煮るのみ 早咲きの梅を楽しみ ここに吟ぜずとも良い道の詩を吟ずる (解説) 以下「付録」として詩篇が綴られている。最初の「道情詩」は自己の半生を省みたものといえよう。一方で社会的な名声を得ることを望み、一方では隠逸への憧れがあったが、結局のところは隠逸の世界に遊ぶ道を選んだということである。

三車秘旨(49)収心法を問う

  三車秘旨(49)収心法を問う (本文) 至人得道は仙に生まれて、仙に死する。形を残したままあの世に行くようなものであり、(死体を残すことなく仙界へと消えて行く)尸解登真の類はそれである。仁たればよく静であることができる。生きて長生きができる。曽子の長生き、顔回の短命もまたこの類とすることができる。 道に五失がある。 『上辺だけを知る者』 『名声を慕うだけの者』 『初めは熱心でもすぐに飽きてしまう者』 『あまりに思い込みが強くて、いまだろくに学んでもいないのにあれこれ分かったようなことを言う者』 『才能が無く愚かで、言っても気づかないし、どうやっても分からない者』 道には三得がある。 『道を知る者は霊人というべきである』 『道を好む者は真人というべきである』 『道を楽しむ者は至人というべきである』」 (解説) 最後の五失、三得は静坐を実践する上で実に重要なことである。一般には「真人」を第一と考えることからすれば「道を好む」ということが最も重要であることが分かる。

三車秘旨(48)収心法を問う

  三車秘旨(48)収心法を問う (本文) 道家の初功は、すべからく自然の気を養うべきであるが、それではあえて問おう、『自然の気』とは何であろうか。『自然の気』を言い換えればただ『気』ということになる。至小で至柔であり、あるべきでない方法(曲)をもってそれを養っても害されることはない。つまり虚空の中に気を聚(あつ)めるのであり、その精の集まるところに生ずるのは、道家の還丹である。これはまた浩然の気であり、この気を得たならば、命の危うきに逢うことになる。身を殺して仁をなす。古来よりこれを『刀解』という。究極においては神奇たること測り難い。変化は思いも及ばず、これはなんとも儒家とは違っていることであろう。あるいは死して後に、そこに自己を見ることができよう。大人が転じて少年となる。仙人も客も等しく遊ぶのであるが、これがつまりは還丹の成就であり、身外の身である。 (解説) ここでは「自然の気」について更なる考察を加えている。「自然の気」とされるものは、ただに「気」として還元されるものなのであって、それは浩然の「気」とも共通している。つまり道家と儒家は「気」という概念に基づく時には「自然の気」も「浩然の気」も同じものとして理解することができるわけである。また生前も死後も「気」の流れの中にあるのであるから何らの変わりのないものなのであって、大人も子供も、仙人であっても俗人(客)でもすべて等しく「気」として存在しているに過ぎない。

三車秘旨(47)収心法を問う

  三車秘旨(47)収心法を問う (本文) 儒家と道家とでは養気の方法が同じではない。自然の気を養えば『生』(への悟り)を得ることができる。浩然の気を養えば『生』も『死』も(悟りを)得ることができる。古来より志のある者や仁を実践する者は、危機に際して自分の使命を知るものである。自らを殺して仁を実践するのもそのひとつであろう。これを養うには、ただに義理の心がなければならない。これが宇宙レベルにおいて働いていることを知るのである。そうであるから孟子は「それは気であり、至大、至剛で、これを養って何らの害もない。これは天地の間を塞いでいる」と言っている。義の実践を積み重ねるのが、道家のいう養気であり、その真を保つことになる。必ずしも危機に際して義の実践をためらうものではないし、必ずしも身を殺して早々にこの世を去ることもない。『易』では『幾を見て始める。日を置くことはない』とある。これが君子というものであろう。 (解説) 「幾を見て始める」は天「機」によって物事を始めるということである。一般には自然の気を養うのが道家で、浩然の気を養うのが儒家であるとされるが、ここでは道家は儒家の更に上を行くものと教えている。儒家では仁を実践するのに我が身を顧みないが、道家では必ずしもそうした生き方を採らない。「義」とは人として行うべきことであるので、そうであるなら「義」の実践は自然な行為ということになる。自然の行為である「義」を行うのであるから、その実践によって意図的に我が身を滅ぼして「義」が実践されるようなことは無いことになる。我が身を滅ぼさなければ仁や義の実践できないというのは、その仁や義がどこか人為的なものであって、真の自然と一体となった仁や義ではないためと考えられるのである。

三車秘旨(46)収心法を問う

  三車秘旨(46)収心法を問う (本文) 転倒し交わって、坤の中に一陽が生まれて坎となる。乾の中に一陰が生まれて離となる。離女と坎男が交わるのである。これは西方の兌女が東方の震男と交わるということでもある。あるいは南北を移して東西となる。(五行説では水生木、火生土、土生金であるから)水と火が変じて金木となる。金情と木性は白虎と青龍である。龍と虎が交わるのは、タ(女に宅の字。乙女の意であるが、ここでは「汞」をいう)が嬰(鉛)に投じるのと同じである。虎と龍が交わるのは、嬰がタに投じるようなものである。タと嬰とはつまり性と命の二物である。命の中に性があり、性の中に命があるのであるから二物はつまり一物となる。そうであるから張紫陽先生は『震兌は東西ではない。坎離は南北ではない』と言われているのであるが、はたしてよく理解できるであろうか。 (解説) ここでは性と命の交わりが、いろいろな言い方で表されることを示している。そして結局は「震兌は東西ではない。坎離は南北ではない」とあるうように表面的な理解にとらわれるのではなく、その根本にあることを知らなければならないとする。つまり性も命も最終的には「玄=杳冥」たるもののひとつの現れに過ぎない。玄はあらゆるところに存している。それを「如何に気づくか」という問題意識の下で、いろいろな方法が考えられ、いろいろな表現が生み出されて来たわのである。そうであるので結局はただ坐って「杳冥」たる境地が現れるのを待てば良いだけのことなのである。

三車秘旨(45)収心法を問う

  三車秘旨(45)収心法を問う (本文) 人身における五臓には本来それぞれの位置があり、そこから移動させることはできない。道家では『乾坤坎離の転倒』をいうが、どうして心を下に移動させることができるであろうか。腎を上に移動することができるであろうか。そうしたことは不可能である。いうところの『転倒』とはつまり心と腎の働きとしての神と気のことである。心神は下に向かって行き、腎気は上に向いて行く。つまり神と気が転倒するのであって、形を有している心と腎とをどうして転倒させることなどできるであろうか。形が無い乾坤であればこそすべからく転倒させることができるのである。 (解説) ここでは「転倒」について述べている。転倒は静坐ではひじょうに重要な概念とされる。ひとつにはここに触れられているようなこともあるが、つまりはあらゆる後天の「事象」は「逆転」させることが可能であると考えるわけである。ただそれは物的には不可能であるが、形を持たない観念の世界においては実に容易とされる。考え方を変えればダイヤモンドもただの石であるに過ぎないし、どのような社会的に高い地位にある人も、人であることにおいては何ら特別ではない。多くの「価値」は実はどのようにも「転倒」させることができるものなのである。重要なことはそうしたことにとらわれて自分自身を損なわないようにすることにある。

三車秘旨(44)収心法を問う

  三車秘旨(44)収心法を問う (本文) 交わりの法においては、先天と後天の違いがある。先天の交わりにおいては『性』をして『命』を立てる。後天の交わりにおいては『神』をして『気』と合わせる。そうであるから『入薬鏡』には『つまり性命はまさに神気ではない。水郷の鉛はただ一味で、先天を『目』という。この一物だけが存している。後天の『目』はつまり精、神、意、気、魂、魄、性、情に分かれる』とある。先天においてはただ一つのものを煉り出すだけなのであり、すべてにおいて了(さとり)へと通じている。つまりは交わりの中から真陽を取り出すだけなのである。 (解説) ここでは先天の交わりについては「水郷の鉛はただ一味で」とあるように腎の一陽(真陽)を開くことにあるとして、これが「杳冥」を悟ることにつながると教えている。また後天の神と気が交わることでは子供が生まれる。先天の性と命が交わることで陽神が生まれる。生成の働きは先天においても後天においても見られるのであるが、結果は同じではない。後天はあくまで後天に留まっており、先天への道が開かれることはないのである。

三車秘旨(43)収心法を問う

  三車秘旨(43)収心法を問う (本文) 門人が質問した。 「陸潜虚仙師は『交わりはつまり太上(老子)が深く秘されたものである』と言われていますが、何を秘されているのか教えてください」 涵虚が答える。 「交わりとは『至陰の本』であるり『杳冥の根』のことである。もしよく杳冥に入ることができたならば、よく交わりを得ることができるであろう。私は先に『虚空の中での団煉』を勧める。静にして静(であり深い静を得て)、定にして定(であり深い静坐の境地を得れば)、人無く我も無い(境地が得られる)。無であるが、無にこだわることも無く、自然に杳を得ている。交わらずして自ずから交わっているのであり、ここに至陰の中に至陽が生まれる。 (解説) 陸潜虚は東派の人物であり、東派では隔体神交を説くことで知られている。また隔体神交はここでも先に出ていた。質問はまさにこれを問うものとすることができるであろう。要するに隔体神交の目的とするところは「杳冥」つまり「玄」を得ることであり、冒頭では性的な交わりのことを考えないでただ静坐をしていれば良いと教えている。実は隔体神交とは直接には関係のないところで天機を感じることをいう。なんとなく坐って休んでいた時、斜め前の人物がひどく気になるとか、テレビや絵画で見た器なり、山なりにひどく惹かれるといったところでは「神」の交わりが生じているとする。そうした時に、なぜそのような気持ちになるのかをよく考えることで自分の「性(本来の心のあり方)」を知ることができるとされている。またこれが「窮理」でもある。

三車秘旨(42)収心法を問う

  三車秘旨(42)収心法を問う (本文) 『勤』は学びの本質である。それは道そのものでもある。また不『勤』の『勤』というものがあり、それが自然の息を養い、自然の心を定める。無為であって為すのであり、為しては為さないところがない。これが『綿綿として存するがごとし』とされることである。それを用いて『勤』めないのが、真の『勤』の至りなのである。 魔を煉るには必ず『勤』字が用いられなければならない。ひたすらに坐って、かえって精神がおかしくなるのは、『勤』を誤って過度に用いているからである。よく睡を煉る者は、睡(ねむ)っても睡らず、かつまた睡るのである。修練を不断に重ねると神や気は自然に盛んとなる。『睡』を煉っていて夜になると、かえって睡魔に囚われたようになる。『周易参同契』では『寝床でも常に抱いて、生死と共にある』としている。よくこの秘訣を用いたならば、悟りを得ることができるであろう」

三車秘旨(41)収心法を問う

  三車秘旨(41)収心法を問う (本文) 『誠』とはつまり陰のシンボルである。易であれば太極である。仏教では(互いに関係している)如如である。孟子は『至誠であって不動である者はいまだない。不誠であってよく動かす者はない』と述べている。動と静で言うならば、つまり誠は陰のシンボルであることを知ることであり、孔子の門では、至誠を深めて神の如くとする。至誠を論じて止むことがない。全ては静の中の大体、大用なのである。そうであるから『誠』をして静に入るのである。静心が乱れなければ、『誠』をして定に入ることができる。心を定めて移ろうことがなくなる。『誠』をして中を守れば、中の心は偏ることがない。『誠』をして杳冥に入ることができ、少しでも誠に通じることができれば障害はなくなるものである。

三車秘旨(40)収心法を問う

  三車秘旨(40)収心法を問う (本文) 門人が質問した。 「先生は、悪人でも道を学ぶことは可能とお考えですか」 涵虚が答える。 「『即誦格語』には『そのうちやれば良いであろうと思っている事柄も、もし明日死んだらどうするのか(やり遂げられはしない)。またまだやらなくて良いと思った事柄も今日やらなければならなくなることもある』とある。つまり悪はなすべきではない。どうあっても善を行うべきであり(諸悪莫作、衆善奉行)、地獄を転じて天国となさなければならないのである。黒気を変じて紅光となすのである。この他に三字訣がある。修行者は『勤』『誠』『恒』の一字をも欠くことがあってはならない。『勤』であり『誠』であれば、結果として必ず『恒』であることができる。孔子も『人において恒が無いならば、巫術を用いての医療もかなうことがないであろう』(『孟子』)と述べておられる。巫術であってもそうなのであるから道の修行において『恒』がなければならないことは言うまでもあるまい。儒学を学ぶ者は文芸の修行を積み、数年にて一定の成果を得る。あるいは十数年も修行をしなければならないとも言われているが、そうであるなら(文芸を学ぶより)修心、煉気をした方が良いであろう。

三車秘旨(39)収心法を問う

  三車秘旨(39)収心法を問う (本文) 門人が質問した。 「先生が法を伝えられるのを人は余りに公開し過ぎであると言います。もし準備ができていない者がこれを受けても、何らの効果を得ることもできないでしょう。こうした批判にどう答えられますか」 涵虚が答える。 「よく物事を知らない者の誹りを受けることがなければ、どうして我が道が大いなる道であるとするに足りようか。大いなる道(大道)を修するには先ずは清浄な身心でなければならない。神と気を調えるのであるが、最終的には一切を放下しなければならない。杳冥を得ようとするのであれば、必ずこれらの成就を得なければならない。そうした後に本当の杳冥を得ることが可能となる。もし杳冥が得られていないのに、得られたものと妄想する者は、最終的に何ら得るものもないことであろう。批判を受けることがどうしてこれを悪しきこととする必要があろうか」

三車秘旨(38)収心法を問う

  三車秘旨(38)収心法を問う (本文) およそ修行をして、杳冥たる境地に入ろうとするのはひとつの難事である。ただ先天の一気が自ずから虚無の中からやって来るならば、必ず真の杳冥が得られる。つまり真の虚無が得られるわけである。ああなんとしたことか。先に難を経ればこそ後に成就することができるのである。それには自らの全てを捨てなければならない。昔、私は(修行に適した場所である)洞天にあって杳冥を得ることを求めていた。七、八年を経て、ややその入り口を見たように思った。今これを学ばんとする者は、よく修行をして焦ることのないようにしなければならない。そうでなければどうして道を得ることができるであろうか」

三車秘旨(37)収心法を問う

  三車秘旨(37)収心法を問う (本文) 門人が質問した。 「三つの河車の秘訣がここでは全て漏らされています。(天の秘密を漏らすと天から罰を受けるといわれています)天からお叱りを受けるのではありませんか」 涵虚が答える。 「天からのお叱りというものは、人が自らの過ちを改めて新たに出直しができるようにと下されるものである。修行には、必ず(それを成就させようとする)先人の思いが込められている。つまり道を求める心である。凡息ではなく真息を求める。そうした後に神と気は定まり、杳冥たる境地に入ることができる(讃)のである。こうした境地のあることは広く知られるべきである。どうして道の悟りを得ようとする人たちが、(本当の修行法を知らないで)また取るに足りない生き方を選択する必要があろうか。

三車秘旨(36)収心法を問う

  三車秘旨(36)収心法を問う (解説) 以下、問答が記される。これらは実際に静坐を修行する上でも参考になるところが多いであろう。静坐では最後は「還虚」へ至る。これが杳冥とされる境地である。あらゆる事柄が「虚」へと向かっていくのであり、そこには「完成形」というものはない。また最終的な「目標」も無い。当面に行わなければならないことを天機によって行うだけである。つまり「永久革命」の中に身を置くことになるわけで、これが静坐の世界である。

三車秘旨(35)収心法への手引

  三車秘旨(35)収心法への手引 (本文) 心は臍下に留める。これを「凝神」という。気は臍下へと収まる。これを「調息」という。神と息とが共に協調して、その清浄、自然であることを守っている。これを「忘れないこと(勿忘)」という。また清浄自然のままにしておくことを「助けない(勿助)」という。「忘れない(勿忘)」「助けない(勿助)」とは「黙(虚の境地)」であり「柔」でもある。この時に息は活発で心は自在の境地にある。ここで「鑽(あつまる)」字訣が用いられる。つまり虚空とは心の存しているところであり、そうであるから「昏黙(玄なる境地。虚空)」が息と神との故郷ということになる。これを煉ること三回、それを二回繰り返す。そうして澄ましてまた澄ませる。こうなるとこつ然として、心も息も共に忘れてしまう。神と気は融合して、覚えず恍然となって陽が生まれる。 (解説) ここでは集中の部位として「臍下」が記されている。日本では「臍下」は一般的に臍の下の気海という経穴とする。神仙道では臍の奥の体の中心あたりとする。この「集中」は「忘れる」こともないが、「助ける」こともない。集中しないというのではないが、殊更に集中しようとするのでもない。そういった「集中」状態を凝神という。これに習熟して行くと「昏然」つまり「玄」への悟りの境地が得られる。ただこうした「昏然」の境地を得ても始めの内は、次に静坐をする時にはそうした境地が得られないことも多い。そこで「昏然」の体験を三回くらい繰り返す。そうするとやや深い「昏然〉体験が得られる。それもまた三回くらい繰り返すと安定した「混然」への悟りが得られるようになる。もちろん回数はそれ位という程の意味しかない。

三車秘旨(34)収心法への手引

  三車秘旨(34)収心法への手引 (本文) 凝神調息は初心の修法である。「凝神」とは清らかな心を内に収めることである。心が浄化されていない時には、眼を閉じてはならない。こうした時には先に意図的な努力をしなければならない。心を収めようとするには、清涼で恬淡としていなければならない。そして始めは気穴に集中するようにする。これが「凝神」である。虚無の中に坐して、体を真っ直ぐにする。こうして虚において凝神をする。「調息」は難しいことではない。心と神が一静(共におおいなる精を得ている)していれば、息をするに従って自然に、呼吸は調って来る。それに加えて神光で体内を照らす(内的な目で見る)。これがつまりは「調」ということである。陰キョウにて息を調えて、自らの心の息とを気穴においてひとつにする。神は気の中にあるので黙して(虚の境地のまま)元海に集中する。そうすれば神と気は交わることなくして交わりが生まれる。接することなくして接触が生まれる。これはつまり「隔体神交」がなるのである。その「性(本来の人の善なる心)」を守って乱すことがない。神を存して失われることがない。よく杳冥(虚の境地にあって)して恍惚となる。 (解説) ここでは「凝神」について述べる。静坐では目を閉じるのか、半眼くらいにするかの問題がある。禅宗では半眼であるとするが、「天台小止観」などには目は閉じるとある。静坐では妄想が止まらないようであれば軽く目を開けるべきと教える。後半は「調」について述べているが、「神光で体内を照らす(内的な目で見る)」とは回光返照のことである。「隔体神交」は男女の性的なものを用いての秘法と誤解されることがある。これはチベット密教に由来するものともされ、実際の交わりをしないで「神」だけの交わりを持つことで陰陽の融合を得ようとするものと説明されることがあるわけである。チベット密教の歓喜仏が示しているのは行者と明妃との交じわる姿であるが、明妃は「空」を象徴するので行者と空とが合体することを示している。「空」との合一を歓喜仏としてチベット仏教で表現してしまったのは過度の禁欲がもたらした妄想によるものではなかろうか。

三車秘旨(33)収心法への手引

  三車秘旨(33)収心法への手引 (本文) 一切を放下する境地へと入り、人我ともに忘れてしまう。これを「杳冥(奥深い闇)をあつめる(鑽杳冥)」という。杳冥たる中に気が生じる。一神独覚(おおいなる神の働きが開かれて真息を悟ることができる)、これがつまり真息である。真息が発現したのである。これは心を柔らかに癒やし、虚無の竅へと還さしめる。これを修すること長きにわたれば、つまり命の源が育まれ、陽気は自然に養われて、全身の気は滞ることなく周るようになる。 (解説) さらに「虚」や「空」の境地が深まると真息が開かれる。ここでは心は「柔」を得るとある。老子は人が生まれる時は「柔」「弱」であり、亡くなる時には「堅」「強」となると教えている(第七十六章)。「柔」であれば「命の源が育まれ」とあるのはこうした老子の生命感によっている。

三車秘旨(32)収心法への手引

  三車秘旨(32)収心法への手引 (本文) そうなれば心は大いに活性化されるが、努めて自然のままでなければならない。これを「文火」という。心が統一を失って活力がなくなっても、自然のままにしておく。これが「武火」である。文と武の火をして、鍛錬することで初めて妙用というものが現れて来る。内的な息は等しく、これを忘れることもないし、特に意識することもない。こうした時にこそ心は虚空となる。確かに呼吸は続いており、決して虚となってしまっているのではない。連綿とした呼吸は空ではない。虚でも空でもないその間、静にして静、清くして清らかとなり、気息は綿綿として、心神は黙黙(虚の状態)となる。 (解説) 会陰への集中において文火と武火の二つの状態が現れることがあると教えている。文火は心が活性化された状態であるが、武火は心が乱れている状態である。どちらであっても気にしないでそのまま自然にしておれば良い。何事においても一喜一憂しないことである。そうしていろいろな体験を重ねる内に、とらわれの少ない「虚」や「空」の境地に入ることができるようになる。

三車秘旨(31)収心法への手引

  三車秘旨(31)収心法への手引 (本文) 養生の道は真息を本とする。曹文逸は「私は多くの人の言うことは間違っていないと思う。命の源は古くから真息にあるとされて来た。」と述べている。これを知るべきであろう。初めの修行は先ずは「静心」を行う。次は「緘口(口を閉じて鼻で息をすること)である。その次は「調息」である〈心が静かであれば、気も落ち着く。あえて調えようとしないで調うようになるのが良い〉。途切れることなく和らかに鼻から息をして、それから目を閉じて体の中を見つめ、腎の下の陰キョウの一脈に意識を向ける(これは肛門の前で陰嚢の後ろである)。意識(神)をそこに留めていると自然とそこが中心となる。 (解説) ここでは「腎の下の陰キョウの一脈」に意識を集中させる方法が述べられている。これは会陰と称されるところでもある。「陰キョウ(足に喬)」とは得脈と任脈とが交わるところとされている。