三車秘旨(34)収心法への手引

 三車秘旨(34)収心法への手引

(本文)

凝神調息は初心の修法である。「凝神」とは清らかな心を内に収めることである。心が浄化されていない時には、眼を閉じてはならない。こうした時には先に意図的な努力をしなければならない。心を収めようとするには、清涼で恬淡としていなければならない。そして始めは気穴に集中するようにする。これが「凝神」である。虚無の中に坐して、体を真っ直ぐにする。こうして虚において凝神をする。「調息」は難しいことではない。心と神が一静(共におおいなる精を得ている)していれば、息をするに従って自然に、呼吸は調って来る。それに加えて神光で体内を照らす(内的な目で見る)。これがつまりは「調」ということである。陰キョウにて息を調えて、自らの心の息とを気穴においてひとつにする。神は気の中にあるので黙して(虚の境地のまま)元海に集中する。そうすれば神と気は交わることなくして交わりが生まれる。接することなくして接触が生まれる。これはつまり「隔体神交」がなるのである。その「性(本来の人の善なる心)」を守って乱すことがない。神を存して失われることがない。よく杳冥(虚の境地にあって)して恍惚となる。

(解説)

ここでは「凝神」について述べる。静坐では目を閉じるのか、半眼くらいにするかの問題がある。禅宗では半眼であるとするが、「天台小止観」などには目は閉じるとある。静坐では妄想が止まらないようであれば軽く目を開けるべきと教える。後半は「調」について述べているが、「神光で体内を照らす(内的な目で見る)」とは回光返照のことである。「隔体神交」は男女の性的なものを用いての秘法と誤解されることがある。これはチベット密教に由来するものともされ、実際の交わりをしないで「神」だけの交わりを持つことで陰陽の融合を得ようとするものと説明されることがあるわけである。チベット密教の歓喜仏が示しているのは行者と明妃との交じわる姿であるが、明妃は「空」を象徴するので行者と空とが合体することを示している。「空」との合一を歓喜仏としてチベット仏教で表現してしまったのは過度の禁欲がもたらした妄想によるものではなかろうか。


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