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三車秘旨(30)収心法について

  三車秘旨(30)収心法について (解説) 『三車秘旨』は三段階の河車を説明した後、「収心法」について述べている。瞑想では「雑念を払う」「集中する」といったことが重視されるが、静坐では再三述べているように集中は重要としてはいない。ただ静かに坐れば自ずから心は静まるとされている。ただ、そうは言ってもなかなか心が静まるまで静坐を続けるのは難しい。そうしたこともあって初心者のために、ここでは「会陰」や「臍下」の集中法を説いている。ただこうした肉体の一部に意識を集中させるのはひとつの便法であって、本来は気の流れを感じてそれが自ずから集まるところ(玄関)に意識を置くことになる。

三車秘旨(29)収心法について

  三車秘旨(29)収心法について (本文) 余すところなく「収心法」を率直に述べるならば、「上天は歓喜して譴責を降すこともない。生涯、うむこと無く河車を回し続ける。心は実に安らかに働き、昨夜は天上界へと昇り善教大真人として認められた。我の四百年の『生涯』に意味は、何度か俗世間に生まれて、金丹を持つことの意味をただ独り知ることができたこと。それは多くの仙人が語って来なかったこと。ために慈悲心が動き、すぐにその場で『瑯環記』を記した。善悪、賢愚を分かつことなく、すべては虚無に坐して収心をすることが求められる。奥く深い闇の中に入ることができた時、初めてよい修行の成就を知ることであろう」ということになる。

三車秘旨(28)第三の河車

  三車秘旨(28)第三の河車 (本文) 少しすると口の中に美液が落ちてくる。その大きさは雀の卵のようであり、ブドウのようでもある。これは麝香ではないし、蜜でもないが、異様に甘く香りが立っている。こうした境地が、つまり九還金液の大薬を得たことにる。修行者は金液を服して、その後にこれをして「鉛を汞に投じる(鉛投汞)」「金を木に并せる(金并木)」「後天を先天に返す(後天返先天)」「嬰児がタク女に合う(嬰児合タク女)」「嬰タクが相い逢う(嬰タク相逢)」という段階に入る。そして朝な夕なにそれを涵養する。久しく行って臓腑の状態をよく観察していると、内外は光り輝き、その中に「一真」のあるのが分かる。それはそっくりそのまま自分に似ている。これが「嬰タク複(ま)た嬰児を生む(嬰タク複生嬰児)」で、この「嬰児」は必ず虚心坦懐に調養しなければならない。途切れることなくこれを温存して、霊谷(関元)から天谷(泥丸)へと移す。その後に出神入化をして、飛翔して仙人たちと出会うことになる。 (解説) ここでは「陽神」の生まれることが述べられている。「陽神」とは小さな「自分」のことでそれは「自分」の真の姿であるとされる。錬金術のホムンクルスと同じようなものである。ただホムンクルスは実験器具の中で作られるようであるが、「陽神」は人体において見いだされる。言われるところによればそれを泥丸から出して始めは近くを歩かせ、次第に遠くに行かせるようにする、とされる。「出神入架」というのが体外に「陽神」を出させることで、これが充分に育つと「飛翔して仙人たちと出会う」ことも可能となるとする。ここでは「大薬」の神秘体験、「陽神」の神秘体験のあることが述べられている。これらは体験しなければならないというものではない。こうしたこともあるくらいに認識しておけば良い。

三車秘旨(27)第三の河車

  三車秘旨(27)第三の河車 (本文) 丹士はこの「首経」を採るが、これを「情を摂(と)って性に帰す(摂情帰性)」という。五千四十八日にして黄道に帰る時、十五夜の月のような明るさがある。金水は円満で、人体にあっては先天の精と気の統一された非常に活発で盛んな時である。修行者がここに至ったならば、急いで大河車を起こして、泥丸へと運び上げなければならない。 (解説) 「情を摂(と)って性に帰す」とは、欲望に満ちた感情(情)の働きを、本来のあるべき感情(性)の働きに戻そうとするものである。「黄道」とは黄道吉日のことで、十数年の長きにわたって静坐をしていると来るべきその日を迎えることができる。この時、心身にはおおいなる融合、和合が感じられる。こうした融合、和合の「神秘体験」はいろいろな場面での神秘体験では普遍的に見ることができる。これを得たならば更に静坐を続けて、そのれを日常化する必要がある。「金水」は五行説で「金は水を生む(金生水)」のことで、これは「土は金を生む」が前提になる。「土」は先天の精と気の融合が始まった状態で、それが「金=肺=呼吸」の変化を促し、「水=腎」の充実をもたらすのである。

三車秘旨(26)第三の河車

  三車秘旨(26)第三の河車 (本文) 「太乙神女伝』にある邱蘭は「雌剣を捧げ出す(捧出雌剣)」をして、これを取り出し、丹の本を立てた。これが「七返還丹」である。丹の本が立ったならば、神と気は既に融和している。こうなると一陽が次第に育って兌(陽陽陰)となる。坎男は変じて兌女となった(これには「庚方の月」「西江の月」「蛾眉の月」などの例えが用いられる)。この「兌女」の二字を丹家は「首経」とする。あるいは「天癸(みずのと)」ともいう(これは類似したものによる名称である。愚かな人はこれを修することがない。無闇な修行をしてしまうのは、真師に出会っていないからである)。 (解説) 雌剣とは女性(陰)の中の「陽」のことで、腎(陰陽陰)の一陽と同じである。腎の一陽を開くことが七返還丹の基本となる。それが育って兌(陽陽陰)となる。坎男は「陰陽陰」で、兌女となるとこれが二陽(陽陽陰)となる。「天」の「みずのと(癸)」とあるのは、火である離=心は「陽」なのでこれをい「天」とし、そにに水である腎の一陰が入ることを示している。ここにも述べられているが、ひとつの境地を現すのにはいろいろな言い方がある。ただここで行われていることは要するに腎の一陰が開いて、これが心に入ることに他ならない。

三車秘旨(25)第三の河車

  三車秘旨(25)第三の河車 (本文) これを譬えるなら坤陰の下に一陽が来復したとすることができよう。乾宮の一陰を吐いて、それにより坤陰を迎えるわけである(腎気が上昇して、心液が下降する。本来自然なことである)。これを「汞をもって鉛を迎える(以汞迎鉛)」と名付ける。また「大いなる坎離の交わり(大坎離交)」という。あるいは「内外陰陽の消息(内外陰陽消息)」とも称する。「消息(様相のこと)」は既に通じてるわけである。 (解説) 坤陰とは「腎」のことでこれは坎卦(陰陽陰)である。この一陽が開かれて「心」の離卦(陽陰陽)へと至る。そうなると「心」の一陰が開いて「腎」へと入る。そうなると「腎」は坤(陰陰陰)となるのでここでは「坤陰」とする名称が用いられている。そうなると「心」は乾=天となり、「腎」は坤=地となって天地が開かれることになる。「心」は思いを表し、「腎」は行動を現す。つまり思いと行動が一致するわけである。人の根源は「善」であるからあらゆる行為や思いは「善」なるものとなる。これらは「徳」のある行為とすることができるし、「道」に則ったものと見なすこともできよう。まさに「老子=道徳経』の教えるのはこうした境地なのである。

三車秘旨(24)第三の河車

  三車秘旨(24)第三の河車 (本文) 離坎の二つの用は、これを借りて形を現すところにある。本来この時には有をして無に入れることになる。寂寂静静、心は死んで神だけが存している。少しく自己の識神があるのみである。この識神が化して驚くべき、愛すべき物として現れる。例えば内神にまた諸天魔将(として現れるような思い)があるとしたら、それが化して好人や悪人として現れるわけである。また例えば内神のいろいろな思いが一定することがないとしても、元神はタン然としているので、ある一定の時が来ると、ひとつの陽気が発生することになる。 (解説) 離は「心」であり、坎は「腎」である。この時、心は安定を得ているが「識神」が働いている。これは現代でいうなら深層意識ということができようか。静坐を長く続けていると、心の深いところに沈んでいるシンボル(象)がいろいろな「形」をとって示現して来ることになる。元神とは表層意識や深層意識とは別の次元にある「本来の自己」の働きで、これはいろいろなことで動ずることはないが、その働きそのものを知ることはできない。しかし、深層意識にまで静坐が至るとこうしたものも現れるとする。そしてこれを「陽気」としている。先天真陽の気である。静坐では人の根源にはこうした「善」なるものがあるとする。そうでなければ修行をする意義も無くなってしまうであろう。

三車秘旨(23)第三の河車

  三車秘旨(23)第三の河車 (本文) 内丹は空洞の中に蔵されている。上辺は乾のようで、下辺は坤のようである。性辺は有に属しており、命辺は無に属している。先に有をして無に入れる。その後に無から有を生む。その象は乾精を坤母に播いているようである。坤とは実腹で坎とする。坤精は乾父に感じる。乾は虚心であり離となる。乾坤が既に並んでいれば、これを鼎器と名付ける(つまり有無の妙竅である)。 (解説) 内丹が得られるようになるには「虚」を実感する必要がある。「虚」を実感したら「煉己」がなったとする。こうした「虚」への悟りの境地は神仙道の最後の「還虚」にも存している。そうであるから「煉己」は静坐の入門であり卒業のレベルであるとすることもできる。内丹には乾と坤が上下にあるとするが、これは乾=天で坤=地であるためで、内丹には天地そのままの姿が示されていることになる。静坐で重要なことは「虚」を実感してそれが、いわゆる「虚無的」にはならないことで、これはさらなる活力を生むのである。こうした一見して相矛盾した如くの境地を特に「内丹」と称する。

三車秘旨(22)第三の河車

  三車秘旨(22)第三の河車 (本文) 先天の精気を運ぶことを丹家では「汞を迎えて鉛を入れる(汞迎鉛入)」「情が来たりて性に帰する(情来帰性)」「七返九還の事」などと名付けているが、この前に煉己が純熟して、汞性が通霊となっていなければならない。進退は自在で、雌雄が互いに応じ変じている。修行はこうしたレベルとなる。そうなると変還の大事を行う。七返還丹は、先ず巳に汞性をなす。これを内丹と称する。ここで入室坐円する。 (解説) 第三の河車では「汞」を迎えて「鉛」を煉る。「汞」とは腎で、「鉛」は心であるから心と腎とを統合させて心の安定を得る段階とすることができよう。「巳に汞性をなす」とは「巳」は火であり、これは腎(陰陽陰)の一陽をいうものである。七返還丹の第一は腎の一陽を開くことにあった。それには「煉己」が出来ていなければならないとされる。「煉己」とは一定の瞑想状態に入ることのできている心身の状態である。「煉己」はひたすら静かに坐ることで開かれる。そして最後には円満な瞑想の境地である「入室坐円」が得られることになる。

三車秘旨(21)第二の河車

  三車秘旨(21)第二の河車 (本文) 水が華池に満つると流れ出してしまう。これが絳宮に至ると気持ちは清涼となる。黄庭に至ると、心火は安らかとなる。これを「鉛をひいて汞を制する(抽鉛制汞)」「虎を牽いて龍を降す(牽虎降龍)」という。未(ひつじ=土)の二つの卦(乾坤)を周流して止むことがない。これが「玉液煉己」である。ただこの「玉液」は日々常にそれがあるというものではない。これを得るには運気の工夫をしなければならない。気を運ぶこと何回かで、その時が至って、玉液が得られることになる。そうなると黄中(中庸)に気は治まり、皮膚には潤いが生まれ、心は静かで安らかであり、性体は光り輝き、外的な事象にとらわれることもない。欲望があってそれが生じてもそのままにしてこだわることもない。俗塵に中にあってそれに染まることもない。真意は堅く護られて、鋭く働いている。また欠けたところもなく、光り輝き、赤が明らかで、信は純粋である。これは煉己純熟の時のことである。ここでは三車の功夫について述べているが、また以下でもこれについて述べている。 (解説) 静坐が一定の安定した状態に入ることをここでは「玉液煉己」としている。華池の「水」が「玉液」と変わる変容の瞬間を体験することが大切であると教えているわけである。ここで「煉己」は一定の成就を得ることになる。静坐はただ静かに、動かないで坐っているだけであるが、こうした変容の瞬間は必ず来る。それを待つためにいろいろなイメージ法やテクニックが考えられているといっても過言ではなかろう。これは漢方なども同様で直接病気を治すというより当面の苦痛などを和らげて自然治癒力の働くのを待つことが主となる。このように直接的に目的とするものを得ようとしない方法はなかなか理解されないようである。

三車秘旨(20)第二の河車

  三車秘旨(20)第二の河車 (本文) 上下の歯を離すことなく付けて、両手を翻して椅子に座する。天井の梁を見つめて、金液を舌に満たす。鼻での呼吸はあくまで密やかである。ここで音をたててそれを飲み込む。気管から十二階(胸を上から下へ)を降ろして行く。そうすると神水は華池を潤す。この「華池」のことは多くの人が本当のことを知らないでいる。ある人はこれが舌の下にあると言うし、また下丹田がそれであるとする。すべて間違っている。華池は両乳の間にある。これを「上気海」と称する。ここと玄膺はすぐ近いところにある。白玉蟾は「華池はまさに気海の内にある」としている。 (解説) 湧泉から発生した水は泥丸(頭頂)から胸の中心へと降りて、そこにある「華池」へと溜まる。これは「上気海」で臍の下のの「(下)気海」と対している。華海が下丹田にあるとするのはそれが「(下)気海」にあると解するからであろう。軟酥の法が上丹田にいうならば「華池」を設けているのに対して、西派では中丹田にそれを求めている。これは中丹田が上丹田と下丹田をむすぶ部位にあるからに他ならない。ただ軟酥の法が「卵」を頭の上としているのはあるいはこれは肉体を離れたサハスラーラ・チャクラのような霊的な次元にあるものと考えることもできる。そうなるとまた違った方法ということになろう。

三車秘旨(19)第二の河車

  三車秘旨(19)第二の河車 (本文) これらの河車は「大洞経」には「精を抑えて泥丸を衛る」とあり、呂洞賓祖師は「精を運んで上宮に入れる」と述べておられる。これらは(精を運ぶもので)運気とは違っている。(精が泥丸に入ると)泥丸宮の中には水音が響いおり、それが長く続いて止むことがない。神はつまりその中で休んでいて、僅かの間そこに留まっている気を、上顎に付けた舌から鼻へと押し出す。 (解説) おおまかにここで述べられている瞑想のイメージをいうなら湧泉で湧いてきた水を華池へと運ぶということにもなろうか。そして頭に水が流れるイメージは軟酥法と同じである。白隠が得た軟酥法では頭の上にバターでできた卵大のものがあり、それが次第に溶け出して全身に及ぶとイメージする。このように西派のテキストでは小周天であれば小周天に関する秘伝、秘訣を多く入れ込んでいる。それはそれで貴重なのであるが、これらすべてを行うわけではない。白隠のように気海を下丹田としてそこに集中し過ぎて心身の不調を招いたような場合にはこうして法も有効となる。

三車秘旨(18)第二の河車

  三車秘旨(18)第二の河車 (本文) そうするとたちまちに尾閭のところに「物」があるのを覚えるようになる。それはモフモフとした綿のようでもあるし、饅頭のようでもあり、気の塊とすることもできよう。これがなかなかまとまらなければ、内息によって(尾閭に)留めて調えなければならない。心をひとつにして、盛んに活性化を図って、休むことなく煉る。そうすれば一筋の熱湯が尾閭に出現する。それを徐々に尾てい骨のあたりに導いて、滔々と流し泥丸へとあげる。これがまさに「黄河が逆流する(黄河倒捲)」「谷川を遡る(漕渓逆運)」といわれるものである。 (解説) ここで重要なことは湧泉と下丹田の関係であろう。湧泉を開くには坐るよりも立つ方が好ましい。立つ瞑想(立禅)は坐る瞑想(坐禅)が一定程度できてから行うと良い。それをここでは述べているわけである。『荘子』にある真人は踵で呼吸をするというのも、立って行う瞑想があったためではないかとは前回に触れたが、「踵」云々は「湧泉」のことで、これは後に述べられる「華池」と関係している。

三車秘旨(17)第二の河車

  三車秘旨(17)第二の河車 (本文) (下丹田で発した流れは)両股の内側あたりから流れて、湧泉へと行くが、この時には神をして両踵に注がなければならない。真息がそれに従って生じる。これが「真人は踵で息をする」ということなのである。こうすることしばらくして湧泉は静を得たなら、心をして尾閭へと返し、黙々とこれを守る。 (解説) 下丹田に発生した「陽気」を湧泉まで意識(神)で導き、再び尾閭へと返すとある。湧泉に「陽気」を誘導すれば真息が開かれるというのは、『荘子』に真人は踵をもって息をする、とあるためである。古代には湧泉のような言葉がなかったので、『荘子』では「踵」としている。ただ真息は必ずしも湧泉に意識をもって「陽気」を運ぶことで開かれるとは限らない。湧泉を開くには坐るより立つ方がやりやすい。そうしたことからすれば仏教の坐禅が入る以前は立って粉う瞑想が中国では主であったのかもしれない。

三車秘旨(16)第二の河車

  三車秘旨(16)第二の河車 (本文) それは虚空の彼方へと消えていくが、失われてしまうわけではない。ここでの秘訣には「神を体の中の気に返せば自ずから(虚へと)還る」とする。これはまさにこの時のことである。こうした状態を保持して日々に深めて行くと、こつ然として丹田には春の雪解けの水のような大いなる流れが生まれる。それを自然の内息で守り、烹て煉ると、この水はたちまちに化して熱気となる。 (解説) よく坐禅で体が強ばるということを聞くが、そうした状態になるのは気血の流れが滞っているからである。ここでは集中にこだわらないことで、かえって丹田が活性化することを教えている。こうした状態の静坐を続けることが重要なのである。第二の河車で強調されるのは「自然の内息」である。これは太極拳などでも重要性されるが、「自然の内息」で最も重要なことは「綿綿(不断)」である。柔らかな自然な呼吸でなければならないのであり、けっして意図的な無理な呼吸をしてはならない。そのためには特別な「集中」をすることは好ましくないのである。

三車秘旨(15)第二の河車

  三車秘旨(15)第二の河車 (本文) 運精においては「坎鉛をして離汞を制する」のでありお、これは「己の性を練る」ものでもある。先の運気をすること久しくして小薬を得たならば、丹を結ぶ端緒を得たことになる。そうしたならば綿綿たる内息をして、天然自在にして丹田を固守する。毎早朝に清坐あるいは清臥していると丹田は一団の柔らかな綿のようになる。それを心府に上らせて虚の中へと戻す。 (解説) 戴二の運精においては「性」を練るとする。これは「練己」のことでもある。運気をして内面を見つめることに慣れたならば、本当の意味での静坐に入ることが可能となる。「小薬」とは始めの小さな変化のことで、これは内面を見つめることをいう。つまり意識のエネルギーが外へから内へと変化したことを「小薬」を得たとするわけである。下丹田へのある種の集中状態もそのままにしておくと解けてしまう。これをあえて解けないように瞑想ではするのであるが、それは必要のないことであって、ここにもあるように胸の辺り(心府)に意識が移動しても構わない。こうした特定の集中にこだわらないことを「虚の中へと戻す」としている。

三車秘旨(14)第一の河車

  三車秘旨(14)第一の河車 (本文) 清気は丹田から出て、玄気は玄壅(胸)に入る。二気転換するのを「気化して水となって、心宮に注ぐ」という。つまり虚無の竅の内に落ちるわけである。これは宝となるものであり、裕(ゆた)かなるものでもある。これが築基である。築基が充分であれば、功はますます深くなる。そしてある時が訪れる。内面を見つめ(照常)て静坐をしていると、突然に丹田に「一物」が現れる。その時には、風雷の響くような「音」が感じられる。稲光のような「光」が感ぜられる。これは「後天の中の先天の薬」である。ここに第一の「車」はこれを運ぶものであることが分かる。これが泥丸に入ると化して液となる。これを服すると「玉液還丹」の入り口に立つことになる。これが結丹の初めである。これよりの修行は綿綿として絶えることのないようでなければならない。こうして根本を固める。そうして養丹の妙を極めるのであるが、それは以下に述べている。 (解説) 瞑想がある一定の深さになると「神秘体験」をすることがある。「二気転換」とは、心(陽陰陽)の一陽と、腎(陰陽陰)の一陰が「転換」することで、これは「転倒」といわれることもある。要するに心と腎とが深い協調関係に戻る、本来の状態に戻ることをいうことに他ならない。重要なことは「内面を見つめ(照常)て静坐を」することに尽きる。その時に「綿綿」で示されるような柔らかさと静けさを保持することが求められる。

三車秘旨(13)第一の河車

  三車秘旨(13)第一の河車 (本文) 気が泥丸に至ると、それは化して神水となる。これを茶湯を飲むように飲む。これを気管に一滴でも垂れると咳が止まらなくなってしまうことであろう。水とは有形のものである。どうして気管に入れることができるであろうか。そうであるから「黄庭経」には「清に出て玄に入るの二気は光り輝いている」とある。もし、この境地に至ることができれば仙人になれることであろう。 (解説) 泥丸は頭頂にある経穴である。ここで気は化して「水」となるとする。これは白隠の軟酥の法と同じものである。軟酥の法では頭頂にバターの卵くらいの塊があるとイメージしてそれが徐々に溶けて行って全身に及ぶとする。これは一種のリラックス法である。「清」は軟酥の法と同じく体が洗われるイメージであり、「玄」とは「靜」を得て陰陽の二気がひとつになることをいう。こうした法を周天に組み合わせることもある。

三車秘旨(12)第一の河車

  三車秘旨(12)第一の河車 (本文) 運気にはその一道を知る必要がある。気をただ「喉」に引き入れるのである。黄庭経には「玄気を服食することで、長生きができる」とある。これにより陽火の色は紫黒となる。これのみが「玄気」といわれる。服食の法には、口訣がなければならない。それを得ることで「気管」に玄気を入れることが可能となる。そうでなければ「食喉」へと入り込むことになってしまう。こうなると得丹の基を得ることなどできるものではない。陽気は「気喉」へと入れなければならない。そして「玄膺(げんよう)」へと至る。これはまた「玄ヨウ」とも言い、気がここに至れば壅塞(ようさい)されることになるが、俗人はこうした玄妙を知ることはない。 (解説) ここでも後天のルートを「食喉」、先天を「気喉」として真気を巡らせる周天は先天のルートでなければならないことを強調する。「玄膺」の「よう」は胸のこと、「玄ヨウ」の「よう」は「塞がる」の意、「壅塞」は「ふさぐ」ということで、これらは「よう」という音の共通しているところから胸(中丹田)に気を留めて温養することの「玄妙」であることを教えている。胸は中丹田で、これは上丹田と下丹田をむすぶ働きを有する。静坐で重要なのは下丹田よりも中丹田である。本来、下丹田は臍の奥にあるが、これを気海という下腹の経穴として、そこに集中するのは気を鎮めるのに容易であるためであるが、気は自ずから上へと行こうとする。こうした自然な気の流れを押さえつけて、あえて気海に集中を続けたために白隠は「禅病」となった。

三車秘旨(11)第一の河車

  三車秘旨(11)第一の河車 (本文) (真気を)尾閭へと移し、守って乱れないようにする。少しの間、真気は温温(おんおん)とし、尾閭骨の尖の二つの穴から腰脊へと浸透させる。それを昇って玉枕へと至り、泥丸に入る。古仙は「(尾閭と)夾脊の二つの関を通って頂門へと至ることを修行において重んじている」と述べている。つまりはそういうことである。愚かな人は、運気を知らない。そうであるから舌を上顎に付けなければならないであるとか、そうして甘露を受けるのであるとかいう。これは笑うべきことであり、憐れむべきものでもあろう。こうした愚かなことを言うのは(正しい)師と巡り合っていないからである。 (解説) ここでは尾閭から背骨にそって夾脊、玉枕、そして頭頂の泥丸へと至る真気のルートを開くことが示されている。尾閭で「温温」とするというのは温養とされるもので、一定の部位に「陽気」を留めることでその力を増して通り難い「関」を通そうとする。尾閭や夾脊などは「陽気」が通りにくい部位(関)とされている。また舌を上顎に付けるというのはここで背中からの気のルートである督脈と体の前の任脈が途切れているからという。督脈と任脈がつながると唾液が甘く感じられるとされる。ただここでは「陽気」ではなく「真気」が通るとしている。真気は自然に周天をしている。そうであるから尾閭で温養をすることもない。ここでは後天の陽気と先天の真気の解説をひとつにしている。意図的に先天後天の合一を言おうとしているのであろうが適切とは言い難い。

三車秘旨(10)第一の河車

  三車秘旨(10)第一の河車 (本文) 下丹田より心闕を熱する。これは夢から初めて目覚めた時と同じような状態であり、これを「活子の時」という。この時に急いで第一の河車を起こすことになる。ここに(河車の)運行を採るわけである。もしこの機を逃してしまえば、無形の気は変じて有形となる。これは「気」であり「壬鉛」でり「後天」であり「陽火」であるとされる。そうであるから「子の時に陽火を進める」というのである。「陽火を進める」とはどういったことであろうか。初めて夢から覚めたような気持ちをそのままに転じて、下鵲橋(会陰)へと移ることである。これは天コウ(北斗七星)の前の一位(北極星)とされる。また「請願不伝の真訣」でもある。この心を「天地の心」と称する。また「妙心」とも称する。また「元温」ともいう。また「真意」であり「玄関の発見」ともいう。 (解説) 「壬(みずのえ)鉛」は腎の一陽である。これを「火」として、心の「水」を熱するわけである。「気(氣)」という字は、米と水蒸気の象徴との組み合わせで出来ている。つまり米を蒸す時に発生する水蒸気の力が「氣」とされていたわけである。これを人体でいうなら心は「火」であり、腎は「水」であるから水火が逆転している。そのため静坐を行うことで腎の一陽(真火)を開き、心の一陰(真水)を開く。そうすると火は下になり、水は上に来るので「気」が生じる。北極星は宇宙の中心でこの星だけが動くことが無い。鵲橋は督脈と任脈の交わるところである。この一点(下鵲橋)は陰陽をむすぶ中心となる部位であり、これを北極星とする。そしてそこを中心に点を周る(周天)のが北斗七星である。つまり周天とは陰陽(静動)の合一にあるのである。

三車秘旨(9)第一の河車

  三車秘旨(9)第一の河車 (本文) それは日に夜があるようなものである。亥の刻(21時から23時)にはただ沈沈としており、それぞれの人の心は息(やす)んでいる。これは無知無識の時である。まさに暁の時には無知無識と(覚醒と)の接点を得ることができる。ここに一陽が来復する。これはまさに冬から春に移る時である。夜から夜明けへ、そのまま移行していく。驚くべきは煙の無いところに煙のあることである。気が無いところに気があることである。 (解説) 瞑想法では「無知無識」となることを目指すものもある。ヨーガなどでは長く瞑想をして行者のまわりに木が生えてその姿が見えなくなった、などという話もある。これは数十日も瞑想をしていたからそうなったわけで、生命活動を最小限に抑えることで、こうしたことも可能となるとされる。いうならば冬眠のような状態になるということであろうか(トリックの可能性もおおいにあるが)。ただ静坐ではこうした状態を好ましいものとはしない。「無知無識」から「一陽来復」した覚醒の状態、生命活動の活発である状態でなければならないとする。「静」であるが生命活動が活発である。これを「妙」とする。

三車秘旨(8)第一の河車

  三車秘旨(8)第一の河車 (本文) 運気の修行は、開関築基をして、得薬、結丹をするものである。その次第をいうならば虚空の中に真息を涵養することを始めとする。収心や調息、閉目や存神は静のまた静なるものでなければならない。清のまた清なるものでなければならない。一切を放下して、全てを忘れる。混混沌沌として、杳杳冥冥となる。修練がこうした境地に至れば、天に冬の時が至るようなものとなる。万物は芸芸(うんうん)として、それそれがそれぞれの根に返るのである。 (解説) 「杳杳冥冥」は「玄」と同じで深夜の闇のような静かさのことで、しかしそこには何か霊的なものが身近に存在しているような靜の中に動を含んだ特異な静坐の感覚をいうものである。こうした静の状態は季節であれば冬に例えられるし、一日であれば深夜ということになる。この時、あらゆるものの活動が止まっているようではあるが、その奥では「芸芸」として盛んに活動がなされている。「冬」は「増ゆ」であるとされる。芽生えの季節である春に向けて活発な生命の活動を準備している期間と考えるのである。

三車秘旨(7)前言(解説6)

  三車秘旨(7)前言(解説6) 心の自由さを求める瞑想はしばしば心の統合を失わせることになる。そして自他の区別が合曖昧となると日常生活を送ることが難しくなってしまう。ただ正常な日常生活を送ることができるということは「規範」にとらわれているからとも言える。しばしば奇行をするような宗教者の言うことが時代を超えて「価値」を持っているのは、それらの意識が日常の「規範」から逸脱しているからに他ならない。

三車秘旨(6)前言(解説5)

  三車秘旨(6)前言(解説5) 瞑想で難しいのは内面を見つめることである。これを「回光返照」という。内面を見つめることは意外に大きなストレスとなりやすい。禅宗で半眼を強調するのはあまり内面に入り込まないようにするためで、内面に深く入るとしばしば「仏教」という枠組みから逸脱をしてしまうことになる。小周天で陽気を巡らすというのは、内面を限られた「陽気を巡らせる」というだけの範囲に限定して、内面を見つめることに慣れさせる訓練をするためである。曼荼羅がいろいろなセクションに分けられているのも、心エネルギーの落ち着くところを設定しておくために他ならない。

三車秘旨(5)前言(解説4)

  三車秘旨(5)前言(解説4) 第三の河車は「精と気を兼ねて運ぶ(精気兼運)」とする。つまり精と気が融合するということである。これはまた大周天ともいわれている。つまり第一の小周天があって、第二の温養、そして第三の大周天であるから、ここで述べられていることは一般的な神仙道の修行階梯と何ら違いのないものであることが分かる。他に「先天の金汞を運ぶ(運先天金汞)」とあるのは、心の一陽を開くことをいうもので、これは心と腎が静まって融合した時に生ずるとされる。心の一陽が開けば、腎の一陰が動いて、先天の純陽、純陰が開かれることになる。つまり心が調えば、体も整い、そして心身の協調が得られることを教えているわけである。「七返還丹」の七は火を象徴する数であり、九は金を象徴するとされている。五行説では金は土に次ぐ位置にある(土は金を生む)もので、火の次は土となる(火は土を生む)。つまり「火、土、金」と相生の関係の並びで「火」と「金」は土に近いわけで、この位置に還ることで「土=先天」を開くことが可能となる。

三車秘旨(4)前言(解説3)

  三車秘旨(4)前言(解説3) 第二の車は「運精」であるという。この段階で主となるのは温養で、これはあらゆる瞑想のテクニックを捨てることになる。つまり「温養」とは「ただ現象を見つめるだけで何もしない修行」なのである。また、この段階を「玉液河車」ともしているが、玉液とは「月の液」のことで、中国では「金烏玉兎」の語があるように、太陽の黒点を烏と見て、月の影を兎とする。そうであるから玉液の「玉」とは玉兎=月をいうものとなるわけで、ただ太陽に照らされているだけの存在の月を「温養」と等しいものと教えているわけなのである。つまりそれは「温養がただ見つめるだけであることを象徴しているわけなのである。

三車秘旨(3)前言(解説2)

  三車秘旨(3)前言(解説2) 「三車」の第一は「運気」であるとする。そして、これは「小周天」であるともある。「子午」の運火とは任脈、督脈などの上下のラインをいう。運気であり運火であるとするのは、小周天が陽気を巡らせる、つまり「火」の「気」を運ぶとされることとも一致している。この「火」は内的な火であり、こうした霊的な熱を感じることは古今東西の神秘行で普遍的に存しているものである。ヨーガのクンダリーニの覚醒も一種の霊的な「火」の体験であるといえよう。こうした普遍性から神仙道では先天の気は、真陽であるとする。本来ならば陰陽は後天の気において存するもので、先天ではそうした区別を超越していると理論的にはするべきであろうが、先天の気を真陽と教えているのは、ここにあるような内的な熱 の体験がベースにあったからであろう。

三車秘旨(2)前言(解説1)

  三車秘旨(2)前言(解説1) 今回より「道竅談』を終わって『三車秘旨』に入る。「三車」とは三つの周天のことである。ただ三つの周天といっても、その方法に三種類があるわけではなく、三つの段階があるということに過ぎない。これらは周天を行って行く内に自ずから変化をするものといえるし、またそうでなければならない。加えて周天においても任脈、督脈といった特定のルートを陽気が周るとイメージすることを必ずしも必要とはしない。特に静坐においてイメージ法を用いることは良しとしていない。要するに自ずからなる変化を三段階において示したのが「三車秘旨」ということになる。

三車秘旨(1)前言(本文)

  三車秘旨(1)前言(本文) 「三車」とは「三つの河車」のことである。その第一は「運気」であり、つまり小周天・子午の運火である。第二は「運精」であり、つまり玉液河車・運水温養である。第三は「精気兼運」であり、大周天・運先天金汞・七返還丹・九還大丹である。この「三車」はすべて真神や真意を根幹としている。もし「三車」の奥義を知ることができれば、精、気、神の三品は円満となり、天、地、人の三仙となるを得ることができるのである。

道竅談 李涵虚(329)第四十章 仙道と仏道を共に修する(解説4)

  道竅談 李涵虚(329)第四十章 仙道と仏道を共に修する(解説4) 仙道、仏道、儒道の根本にあるのは「道」であるとする。「道」とは宇宙の根本法則のことであって、それを知ることで「養生」に役立てようとしたのであった。養生のベースにあるのは「生きることを楽しむ」である。長い歴史の中で表面的な楽しさはすぐに失われてしまう、そうではなく、失われることのない味わいの深い本当の楽しさを養生法では求めたのであった。そしてそこで得られたのは「無為自然」であった。それを体得して実践する方法として仙道や儒道がある。また仏道も中国ではそのようなものとして受け止められることが往々にしてあった。仙道、仏道、あるいは儒道がひとつであるとするのは「道=養生」においてであったのである。