三車秘旨(24)第三の河車

 三車秘旨(24)第三の河車

(本文)

離坎の二つの用は、これを借りて形を現すところにある。本来この時には有をして無に入れることになる。寂寂静静、心は死んで神だけが存している。少しく自己の識神があるのみである。この識神が化して驚くべき、愛すべき物として現れる。例えば内神にまた諸天魔将(として現れるような思い)があるとしたら、それが化して好人や悪人として現れるわけである。また例えば内神のいろいろな思いが一定することがないとしても、元神はタン然としているので、ある一定の時が来ると、ひとつの陽気が発生することになる。

(解説)

離は「心」であり、坎は「腎」である。この時、心は安定を得ているが「識神」が働いている。これは現代でいうなら深層意識ということができようか。静坐を長く続けていると、心の深いところに沈んでいるシンボル(象)がいろいろな「形」をとって示現して来ることになる。元神とは表層意識や深層意識とは別の次元にある「本来の自己」の働きで、これはいろいろなことで動ずることはないが、その働きそのものを知ることはできない。しかし、深層意識にまで静坐が至るとこうしたものも現れるとする。そしてこれを「陽気」としている。先天真陽の気である。静坐では人の根源にはこうした「善」なるものがあるとする。そうでなければ修行をする意義も無くなってしまうであろう。


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