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道竅談 李涵虚(303)第三十六章 神と意の妙用(解説3)

  道竅談 李涵虚(303)第三十六章 神と意の妙用(解説3) 長く静坐を続けようとするならなかなか「無為」「虚無」だけで続けることは難しいのかもしれない。そうであるからいろいろな瞑想の技法を試したくなる。あるいは静坐の後に仲間と話をしたりする「イベント」などの楽しみを置くことでモチベーションを維持しようとすることもあろう。しかし、そうしたことでは「虚無」を実践したことにはならない。ただひたすらに続けなければならない。とにかく続ける。重要なことは一日も休まずに続けることである。それは一日一分でも構わない。そうした中に自ずから「元神」が開かれる。こうして静坐の醍醐味が分かるようになると「イベント」はかえって煩わしいものとなる。

道竅談 李涵虚(307)第三十六章 神と意の妙用(解説2)

  道竅談 李涵虚(307)第三十六章 神と意の妙用(解説2) 神をして静かに自らの内面を見つめる。これが 『周易参考同契』の「安静虚無」である。ここで重要なのは「安静」と「虚無」であろう。「虚無」とは「無為」のことで何もしないでいると自ずから「安静」な状態が得られるとする。何かをしようとすると「意」が動くことになる。「意が動くには「神」が働かなければならない。そうなると必ずしも正しい意識状態が得られるとは限らなくなる。神は後天のいろいろな情報に影響されているからである。そうであるから「無為」「虚無」となれば意は動かず、神も「安静」のままであることができる。そうなると自ずから元神(先天の神)が開かれると教えるわけである。

道竅談 李涵虚(302)第三十六章 神と意の妙用(解説1)

  道竅談 李涵虚(302)第三十六章 神と意の妙用(解説1) 神と意は体と用の関係にある。また意を用いようとするのであればそれは神を離れることはできない。意が働くのは神があるからで、意識の働きを意と神に分けるのは、その根本にはあるべき意識の働きがすでに存していると考えるためである。つまり意から神そして元神がもっとも純粋でこれは本来の人が有している理想的な「仁」や「慈」などで表現される境地である。それが後天の神になると欲望などいろいろなものに影響されてまちがった心の働きを促してしまう。こうした中に生まれた意は必ずしも適切な行動だけを促さなくなってしまう。

道竅談 李涵虚(301)第三十六章 神と意の妙用(本文)

  道竅談 李涵虚(301)第三十六章 神と意の妙用(本文) 神は凝を貴ぶ。『周易参考同契』の「安静虚無」とは「内照形躯(体の内面を見つめる)」のことである。神は意は同じものではない。「意」を用いるのは「内照玄関(体の中の玄関を見つめる)」においてであるが、それには必ず「真意」が用いられなければならない。わたしは伍沖虚が「真意は虚無の中の正覚である」と言っているのを知っている。また陸潜虚は「上下を灌注する」といっている。それには必ず「元神」を動かさなければならないのであり、それは「元神」の斡旋、「元神」の正覚でなければならない。「元神」がそのまま「真意」であるわけはない。そこには自ずから体と用の区別がある。およそこれらを用いるには「杳冥無為(深い境地に入って無為)」でなければならないのであるが、こうした静の中にあって「運」を司るのが「神」である。ゆったりとして正しく、あるべき理を乱すことがない「意」でなければならない。そうなれば「神」は丹となり得る。「神」と「意」とには実に体と用の別がある。ここにおいて体と用とは分かれている。用とはつまり(神を含んでいるので)二である。用は体によるからである。そうであるからまた一物(である神)をしてこれを視ることができる。ただ無為であり「真意」を培養しようとするのであれば、「元気」を養わなければならない。真意は静が極まったところに生まれる。そうであるから自らの(神と意との)妙用を安定したものとしなければならない。そのためには道には常に応じ、常に静であらねばならない。これは儒家のいう「安んじて後によく慮る」ということであり、釈家のいう「定中に(智)慧を生む」である。

道竅談 李涵虚(300)第三十五章 気と息の妙用(解説6)

  道竅談 李涵虚(300)第三十五章 気と息の妙用(解説6) ここでは「呼吸」と「息」を区別しているが、呼吸法などで操作ができるのは「呼吸」であって「息」ではない。「息」とは先天の呼吸と後天の呼吸が一体となっている状態をいう。つまり「先天」とは意図的には操作をすることができない部分が「息」にはあるということである。「息」を「精」から調えようとするのが「呼吸」法である。一方「神」からアプローチをするのが宗教などで、人の生の根本には「苦」や「罪」があることにして、それから逃れる方法を説くのであり、そのことで「神」に静を得て感情である「息」を調えようとする。こうした方法は妄想を基盤とするものでいうならば迷信であるが、こうした方法を必要とする人も居る。迷信でも妄想でも個人の内面で完結している場合にはなんら問題ではない。

道竅談 李涵虚(299)第三十五章 気と息の妙用(解説5)

  道竅談 李涵虚(299)第三十五章 気と息の妙用(解説5) 真気とは先天の気、後天の気がひとつになった状態の気である。心身の状態が整った状態ということができるであろう。真気は真息が開くことで養われるとされている。縷々述べているように真気と真息は実際はひとつのものである。真息は生まれた時の「ア」と亡くなる時の「ウン」がそれである。真息とはアウンの息のことでもある。日本では「阿吽の呼吸」というと調子を合わせる意味となるが、これは阿吽の呼吸が本来、内的呼吸であるためである。相手の内的な息を感じて、気の動きを知る。そして、それに合わせるわけである。ただこれは「合わせよう」と思っては合わせることができない。自然に合うような状態にならなければならない。

道竅談 李涵虚(298)第三十五章 気と息の妙用(解説4)

  道竅談 李涵虚(298)第三十五章 気と息の妙用(解説4) 「復命の根」とは本来の「命」の状態に戻ることをいう。その根源、根本が気と息の調和、一致にあるというわけである。「養命の源」「護命の宝」も同じことである。「命」が本来の状態に還ることでそれが養われる(養命)し、護られもする(護命)わけである。「命」が本来に還れば、同時に「性」(精神)も本来の状態に復することになる。それは「命」と「性」が一体であるからに他ならない。このように神仙道ではすべては「一」に還るのである。

道竅談 李涵虚(297)第三十五章 気と息の妙用(解説3)

  道竅談 李涵虚(297)第三十五章 気と息の妙用(解説3) 「真息のタクヤク」の「タクヤク」は『老子』第五章に出てくる語で「鞴(ふいご)」の意味であって、老子は天地の間が「タクヤク」の如くであるとする。つまり天地の間には何もないが、「屈(きわま)ることがない」とする。老子の言いたいのは何もないからきわまることがないということである。息もそれを操作したなら、ある程度は求めた気(つまり感情)の状態を得ることはできるであろうが、それ以上の境地に達することはかなわない。ただ「虚」であれば息と気はひとつになり「タクヤク」の如くに盛んなる生成の働きを得ることができるのである。これは生命力のことをいっていることは言うまでもあるまい

道竅談 李涵虚(296)第三十五章 気と息の妙用(解説2)

  道竅談 李涵虚(296)第三十五章 気と息の妙用(解説2) 「真気はやわらぐ」と訳したのは「インウン」(インは気の中が「因」。ウンは気の中が「温」の右側)で、これには「盛んである」という意味もある。太極拳では「綿綿不断」の他に「神内斂、気鼓機」の拳訣があるが、「綿綿」は「和らぐ」というニュアンスを伝えるものであり、「鼓騰」は「盛ん」のということになる。つまり呼吸はあくまで静かで柔らかくはあるが、盛んな生成の働き、つまり生命力を持っているということである。古代の日本では「気息(いぶき)」という考え方があった。それは気と息がひとつになって生成の働きのある息のことをいっており、その気吹の中から神々が生まれている。

道竅談 李涵虚(295)第三十五章 気と息の妙用(解説1)

  道竅談 李涵虚(295)第三十五章 気と息の妙用(解説1) 気と息は不可分の関係であり、それが正しく整えられることで命の根源も養われるとする。気は感情である。感情と息とが深い関係にあることは、怒れば息は激しくなるし、失望した時にはため息が出ることでも容易に知ることができよう。「真息」とは人が本来、有している息のことでこれは太極拳の教える「綿綿不断」がそれをよく表現している。柔らかく、静かに絶えることのない息である。

道竅談 李涵虚(294)第三十五章 気と息の妙用(本文)

  道竅談 李涵虚(294)第三十五章 気と息の妙用(本文) 曹元君は「私と諸君とで率直に語ろうと思う。命の本質は真息によっている。そうであるから真息は命の本質である」と言われた。これはどういったことであろうか。私見によれば後天の呼吸を先天の呼吸に配する。そうなると先天の呼吸とはつまり体の中の真気(の働き)ということになる。これは呼吸をするのに従って動き、滞ることがない。まさにこうした時、息が動くのである。気が動くのである。息が動けば気もまた動くわけで、これらは不可分の関係にある。息の中に気を有しているのであるから(そうした息と気がひとつになれば)『真息はやわらぐ』といわれるのである。気の中には息が有されているのであるから(そうした気と息がひとつになれば)『真息のタクヤク(鞴ふいご)』といわれるのである。真息が動けば真気が生じる。真気が生じれば命の本質が育まれる。復命の根、養命の源、護命の宝は、実に真息にこそあるのである。

道竅談 李涵虚(293)第三十四章 神と息とを再び論ず(解説6)

道竅談 李涵虚(293) 第三十四章 神と息とを再び論ず (解説6) 神と一体となった息は、日本では特に「呼吸」「間合い」として重視されている。中国ではこうしたものを「機」と称する。社会の変化の時である天機は特に重視され、それを適切に利用することが新たなステージに入るためには欠くべからざるものとする。つまり社会の変化は自己の内的な変化と無関係ではなく、それと適切に合わせることで心身の変容を促すことができると考えるわけである。これはまた「天丹」ということもある。ちなみに「人丹」は静坐のような修行であり、「地丹」は住んでいる環境とされる。適切な住環境や人間関係も心身の変容に資するものである。

道竅談 李涵虚(292)第三十四章 神と息とを再び論ず(解説5)

  道竅談 李涵虚(292) 第三十四章 神と息とを再び論ず (解説5) 「 存神は虚でなければならない」とある「存神」には意識のあり方といったほどの意味がある。静坐において意識のあり方は「虚」つまり無為自然でなければならないということである。静坐では雑念を完全に排することはできないと教えている。そうであるから、いろいろな思いが生じてもそのままにしておけば良いと考える。『老子』(第十四章)には「濁」であったならば「静」で対する。ただ静かにしていれば自ずから「清」となる、と教えているのである。これは「濁」が無くなるわけではなく、「濁」は「濁」のあるべきところに落ち着き、「清」は「清」のあるべきところに納まるということである。煩悩とされるようなことも、ある意味では生きるために必要な心身の働きである。そうであるからこれらを徒に否定するのではなく、適切にコントロールできればそれで良いとする。

道竅談 李涵虚(291)第三十四章 神と息とを再び論ず(解説4)

  道竅談 李涵虚(291) 第三十四章 神と息とを再び論ず (解説4) 「神」は意識や思考に関係するもので、「息」は感情とつながりがある。つまり「息」は気によって動いていることになる。そうであるから神は意、気は情で息と関係を持つ。もちろん思考は感情の変化を促すので、神と息とがまったく無関係ということはない。思い悩むことがなければ平静ていることもできるので、息が乱れることもない。これは情を鎮めようとしても、それは困難であり、思考をコントロールすることで情を鎮めることができると教えている。静坐ではこれを「転倒」という。逆に考えるわけである。良くないことを、適当に良いように解釈する。不幸なことが連続しても、「これは天が特別に優れた自分に与えた試練である」と考えると「悪くない」と思えるかもしれない。

道竅談 李涵虚(290)第三十四章 神と息とを再び論ず(解説3)

  道竅談 李涵虚(290) 第三十四章 神と息とを再び論ず (解説3) ここでは「存神」という意識のあり方について、これが「虚」であるべきことを教えている。「虚」であるとは特段の意識をしない、ということである。神と息とが一体化するとか、集中うしようなどと意図することも意識することもないわけである。このように静坐ではできるだけ意図的な働きかけをしないようにする。ただまったく技巧を排してしまっては、心身の調整がうまく行かない。どの程度、技巧を使うか、使わないかの「さじ加減」が重要で、これが正確にできるまでは十年ほどはかかるとされている。静坐で最も大切とされる「火候」は風と火の「さじ加減」をいうものなのである。

道竅談 李涵虚(289)第三十四章 神と息とを再び論ず(解説2)

  道竅談 李涵虚(289) 第三十四章 神と息とを再び論ず (解説2) 形意拳では劈拳が「金」に属している。五行の「金」は「肺」にあたる。そして動きは起落翻攅である。形意拳の息は起落にある。また八卦拳の八母掌では丹鳳朝陽が第一で、これは離卦・心に配される。八卦拳でも旋転騰ダ(手篇に那)で示されるようなネジリを加えることで胸を開く。さらに太極拳には「綿綿不断」の拳訣があり、柔らかな息を開くことを教えている。こうした門派による息の開き方の違いは、後の武術の動きとの関連で同じものとはなっていないが、何れも神と息との一体化を目的としている。

道竅談 李涵虚(288)第三十四章 神と息とを再び論ず(解説1)

  道竅談 李涵虚(288) 第三十四章 神と息とを再び論ず (解説1) ここでは神と息との一体化が意識されることが無い、とある。意識されることなく一体であるのが真の一体化であり、これらを「ひとつにしよう」と意図したりするのは既に一体化からは外れているということになる。神と息とが一体化していることは「内的な熱」の発生によって知ることができることは既に述べたが、これは心身の活性化を意味するものでもある。こうした神と一体となった息を知るには動きを伴う練習をした方が良いであろう。陳微明も『太極拳答問』で静坐よりも太極拳の方が心身の調整を行いやすいと指摘している。

道竅談 李涵虚(287)第三十四章 神と息とを再び論ず(本文)

  道竅談 李涵虚(287)第三十四章 神と息とを再び論ず(本文) 息が静であれば、神は安定する。凝神の法はもとより調息によらなければならない。神が定まれば息も安定する。調息の法もまた凝神によらなければならない。おおよそ存神(意識のあり方)は虚でなければならない。そうであれば内息が開かれて息は神と深く協調することになり、神は息と協調することで鎮まる。神と息とは共に鎮まっており、それはあるようであり、ないようでもある。神は息と一体であるが、息と神との一体が意識されることもこともない。風は火を得て盛んになる。火は風を得て燃え上がる。風と火、火と風は深く係りあっている。風は火であり、火は風であることを知らなければならない。純粋に熟した功夫は文字をしてそれを表現することはできない。

道竅談 李涵虚(286)第三十三章 神と息との妙用(解説6)

  道竅談 李涵虚(286)第三十三章 神と息との妙用(解説6) これまで見てきたように静坐の文献にはいろいろな方法が記されているが、実際は「必要なものだけ」を用いれば良い。この見極めをするのに始めは師の指導を仰がなければならないかもしれない。重要なことは「一定の時間、自己の内面を見つめる」ということだけに過ぎない。本文には「 火力があがって火の色は青になる」とあるが、これは「炉火純青」と称されるもので、火力が上がって純粋な金属へと精錬されることを示しているのであるが、静坐にあっては清澄な心身の状態に入ることをいうものである。

道竅談 李涵虚(285)第三十三章 神と息との妙用(解説5)

  道竅談 李涵虚(285)第三十三章 神と息との妙用(解説5) 「 炉の中に火が発すると、陽光も輝く。この時に神はつまり気であり、気はつまりは神である。薬は火によって煉られ赤くなる」とあるが、「赤くなる」のでこの「薬」が「丹」とされる。「丹」には「あか」の意がある。これは光(陽光)が発している状態を示すもので、下丹田にそういった感覚が得られることもある。あるいは実際に赤い光が幻視されることもある。そこで「火は薬であり、薬は火である」の教えが重要となる。つまり「火」として幻視される赤い光にこだわる必要はないことをこれは教えている。「火は薬」だけであれば赤い火を幻視して薬が得られると誤解される恐れがあるので、あえて「薬は火」であるを付して「火」が必ずしも「薬」の発生に欠くことのできないものではないことを示している。

道竅談 李涵虚(284)第三十三章 神と息との妙用(解説4)

道竅談 李涵虚(284)第三十三章 神と息との妙用(解説4) 「風」は「火」の勢いを盛んにし、それは「炉=下丹田」に吹き入れられなければならない。「風」が「火」の勢いを盛んにするとは、息が内的な働きを持って内的な熱を生むことである。確かに内的な熱は実際に温かさとして感じられるし、ある場合には発汗をするほどの「熱」となることもある。またそうした状態は下丹田(炉)の充実を促すものでもある。そのための秘訣として「 凝神聚気」がある。つまり「神を凝(こ)らして、気を聚(あつ)める」のであり、神や気が散漫にならないように静をもってそれを守ることが重要とする。

道竅談 李涵虚(283)第三十三章 神と息との妙用(解説3)

  道竅談 李涵虚(283)第三十三章 神と息との妙用(解説3) 「鞴」のイメージは『老子』の第五章に出てくる。天地の間を「鞴」として、そこは虚であるが尽きることはないとする。天地の間には何もないが、あらゆるものがそこにあるということである。ここからは大宇宙も「鞴」であり、小宇宙も「鞴」であるとする世界観をうかがうことができる。大宇宙の「鞴」は風で、小宇宙は息となろう。日本神話でもスサノオは「風」の神とすることができよう。中世以降の呪術ではスサノオが特別な神格として取り扱われる。

道竅談 李涵虚(282)第三十三章 神と息との妙用(解説2)

  道竅談 李涵虚(282)第三十三章 神と息との妙用(解説2) ひとつの成就の証でもある「内的な熱」の発生は「神」にあることが指摘されている。そこで「 神」は「含光黙黙」でなければならないとする。「光を含み静かにしている(黙黙)」とは「回光返照」と同じである。自分の内面を静かに見つめる。ここには何らのイメージ(観想)や呼吸法などの操作を加えることはない。また「息」は「真気が柔らかく途切れなく(綿綿)」とする。真気とは「神」と「気」が一体となっている状態をいう。これらが無為自然であることをいっている。

道竅談 李涵虚(281)第三十三章 神と息との妙用(解説1)

  道竅談 李涵虚(281)第三十三章 神と息との妙用(解説1) ここもいうならば「呼吸」について述べたものである。静坐にとって重要なのは外的な呼吸ではなく、内的な呼吸であることを教えている。そして内的な呼吸による「風」が体内の「炉」に吹き込まれることで「丹」を煉ることが可能となるとする。ここに見られるような「内的な熱」の発生は多くの神秘的なエクササイズで見ることができる。エリアーデもシャーマニズムやヨーガで行の成就の証としての「内的な熱」の発生があることを指摘している。またチベット密教では「ツンモ」と称してミラレパなどがそれに熟達したと伝えられている。

道竅談 李涵虚(280)第三十三章 神と息との妙用(本文)

  道竅談 李涵虚(280)第三十三章 神と息との妙用(本文) 神とは「火」である。息とは「風」である。風と火の玄機を知ろうとするのであれば、神と息とを適切に安定させなければならない。神は「含光黙黙(内面を静かに見つめる)」を貴び、息は「真気綿綿(柔らかで途切れのない)」でなければならない。もし神を適切に安定させることができたならば、それは息にも及ぶことになる。これは炉の中で火を盛んに燃やそうとして、鞴(ふいご)で風を送るようなものである。また扇によって風を起こして火をますます燃え上がらせるようなものである。火が燃え上がれば燃え上がるほど金属はよく溶け(て不純なものは取り除かれ)る。 ここで見るべきは風が火の勢いを助けるということであって、火が風の勢いを盛んにするわけではないということである。これには機竅(重要な機微)がある。鞴の(空)気を盛んにして吹けば、それは必ず炉に通じ、そのことで適切に気が火まで通ることになる。鞴の(空)気は炉に通じて初めて、よくその火を盛んにすることが可能となるのであり、そうなると火力があがって火の色は青になる。 修行者は「凝神聚気(神と気が散漫とならないようにする)」すれば、つまり火が金を溶かすようになるのである。息は坎(腎=下丹田)の中に吹かれ、つまり炉に入って、風は火の勢いを盛んにするのを助ける。炉の中に火が発すると、陽光も輝く。この時に神はつまり気であり、気はつまりは神である。薬は火によって煉られ赤くなる。瓊カン(えいかん。 カンは「王」に「官」)翁が「火は薬であり、薬は火である」としているのはこうしたことによっている。火と薬は互いにひとつになって金丹が得られる。もし息を内的に吹かれるものではなく、ただに喉や鼻から出されるものと考えたのでは、それは炉には何ら影響することがない。こうした考え方は笑うべきものである。

道竅談 李涵虚(279)第三十二章 心身について~調息法も含む~(解説5)

  道竅談 李涵虚(279)第三十二章 心身について~調息法も含む~(解説5) 「 心は絳宮(中丹田)に鎮まっている」とある。中国の仏像には胸に卍を記しているものがあるが、これが心の凝(安定)を示している。つまり中丹田に心が鎮まらなければ、上丹田の「神」は乱れて(雑)念を生むことになる。仏教では雑念というが静坐ではただ念とする。静坐では念が生じること自体は構わないとする。むしろ、それにとらわれなけれないことが重要であるとする。何事においても念(思い)に執着し過ぎないようにする習慣を得ようとするのが静坐である。歴史的に見れば世の中でこぞって「正しい」「常識」とされているものが最も危ない。こうした「常識への疑い」を静坐では養うことになる。  

道竅談 李涵虚(278)第三十二章 心身について~調息法も含む~(解説4)

  道竅談 李涵虚(278)第三十二章 心身について~調息法も含む~(解説4) 本文には「 心が静であれば息もまた調え易いものである」としている。これは先にも触れた調心、調息から凝神への流れをいうものである。ただ調心といってもどのようにすれば調心を行うことができるのかが分からない。それについては以下のようにある。「心の働きが微細になればなる程、息も次第に微細なものとなる」である。「心の働きが微細」になるとは、自分の心の働きを細かく観察することで自ずからその働きを微細なレベルで知ることができるようになる。そうなると息も静かなものとなる。こうした過程は煉精化気、練気化神とも称される。

道竅談 李涵虚(277)第三十二章 心身について~調息法も含む~(解説3)

  道竅談 李涵虚(277)第三十二章 心身について~調息法も含む~(解説3) 世には荒行、苦行とされる行法があるが、これによって「煩悩」を滅することが不可能であることは歴史的にも明らかであるといって良かろう。あるいは苦行や荒行に耐えることで肉体をある程度、コントロールできる部分もあるが、そうしたものが怒りや貪りや無知のコントロールには何ら寄与するところがない。 陸潜虚の「調息の法は調心から始める。凝神の法は調息から始める。これは仙仏となる手引きであり、個々人が徳に入る路である」によれは、調心から調息そして凝神(心の安定)が得られるとする過程を見ることができる。つまり調心から調息は可能であるが、調息から調心へのアプローチは適当ではないことが分かる。

道竅談 李涵虚(276)第三十二章 心身について~調息法も含む~(解説2)

  道竅談 李涵虚(276)第三十二章 心身について~調息法も含む~(解説2) 「神」とは精神的なエネルギーであり、「心」はその働きをいう。これは水とその流れのようなもので、「水流」は水と流れとで作られ、これらは二つによっているが「水流」という現象としてはひとつのものである。神は三品の中で最も微細なものであるために三品の上薬と称される。最も粗であるのが精である。「精」は肉体をつかさどるエネルギー、「気」は感情をつかさどるエネルギー、「精」は肉体をつかさどるエネルギーである。これらの違いは微細であるか粗大であるかにあるのみで基本的には同じエネルギーである。そうであるから心と体の対立というような発想を持つことはない。いろいろな方法で体を痛めることで、心を制御しようとする行法の根底にあるのは体が心の働きを乱しているとする考えであり、体の力を弱めることで心の働きはピュアとなると考えるのであるが、こうした方法では心を制御することはできない。それは体と心は一体であるからである。

道竅談 李涵虚(275)第三十二章 心身について~調息法も含む~(解説1)

  道竅談 李涵虚(275)第三十二章 心身について~調息法も含む~(解説1) 心身を整えることと呼吸とは深い関係にある。そうであるからいろいろな心身を扱うエクササイズでは呼吸を重視する。しかし、ここでは呼吸法を意図的なものとして否定している。神仙道では無為自然を旨とするので意図的な操作は適さないと考えるからである。確かに心身の状態は呼吸に反映されるのであるが、呼吸の状態をして心身をコントロールすることは適当ではないと教えている。

道竅談 李涵虚(274)第三十二章 心身について~調息法も含む~(本文 下)

  道竅談 李涵虚(274)第三十二章 心身について~調息法も含む~(本文 下) 心が静であれば息もまた調え易いものである。心の働きが微細になればなる程、息も次第に微細なものとなる。息が調えば神もあるべきところに帰する。そして更に神が安定すれば気穴の中に凝するが、それは心(の凝)であり、またそれは神(の凝)でもある。それはどういうことか。つまり心は絳宮(中丹田)に鎮まっているということである。心が絳宮から動けば乱れて念となる。静をしてそれを収めると、それは心(の凝)となる。そして静心をして神室へと返すのである。それが神となる。神によって思慮が働くことは無い。無為の中にあって為さないことはない。無用の中に大用が含まれている。これがいわゆる三品の大薬である。 凝神の時には、特に息が途絶えないようにさせなければならない。神を息に合わせてはならない。神をして息をしてはならない。そうなると息により神は乱れることになる。息を操れば神も動揺する。息は常に止まることなく、その天然に任せる。自然のままであれば、神はいよいよ凝となる。至静が極まれば動く。つまり神が気を得たならば、この気が初めて天地自然の元気(鴻濛)を開くのである。これは寂然として不動であるが、感じて通じることができる。修道の士はこれを有為と考えるであろうか。