道竅談 李涵虚(274)第三十二章 心身について~調息法も含む~(本文 下)
道竅談 李涵虚(274)第三十二章 心身について~調息法も含む~(本文 下)
心が静であれば息もまた調え易いものである。心の働きが微細になればなる程、息も次第に微細なものとなる。息が調えば神もあるべきところに帰する。そして更に神が安定すれば気穴の中に凝するが、それは心(の凝)であり、またそれは神(の凝)でもある。それはどういうことか。つまり心は絳宮(中丹田)に鎮まっているということである。心が絳宮から動けば乱れて念となる。静をしてそれを収めると、それは心(の凝)となる。そして静心をして神室へと返すのである。それが神となる。神によって思慮が働くことは無い。無為の中にあって為さないことはない。無用の中に大用が含まれている。これがいわゆる三品の大薬である。
凝神の時には、特に息が途絶えないようにさせなければならない。神を息に合わせてはならない。神をして息をしてはならない。そうなると息により神は乱れることになる。息を操れば神も動揺する。息は常に止まることなく、その天然に任せる。自然のままであれば、神はいよいよ凝となる。至静が極まれば動く。つまり神が気を得たならば、この気が初めて天地自然の元気(鴻濛)を開くのである。これは寂然として不動であるが、感じて通じることができる。修道の士はこれを有為と考えるであろうか。
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