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道竅談 李涵虚(328)第四十章 仙道と仏道を共に修する(解説3)

  道竅談 李涵虚(328)第四十章 仙道と仏道を共に修する(解説3) 仏道においても天台止観では既に健康への言及が見られるように「命」への目配りが、早くから中国仏教の瞑想においてはあったことが伺える。また仙道は仏教の影響を受けることで、不老長寿が不可能であると分かった後の心身の養生法への転換をはかることができた。こうした養生法への展開という流れも後押しをして、儒道では朱子学や陽明学などで静坐が深く研究された。心を整え(性)、体を整える(命)ことは「養生」として中国では伝統的に重視される生き方でもある。つまり「性」の追究も宇宙の真理を求めるようなものではなく、基本的には健康法の範疇に属するもので、長生きをしようとするのであれば天地、宇宙の法則である「道」に沿った生き方でなければならないと考えたのであった。

道竅談 李涵虚(327)第四十章 仙道と仏道を共に修する(解説2)

  道竅談 李涵虚(327)第四十章 仙道と仏道を共に修する(解説2) 伝統的に「仙仏合宗」や「三教合一」はよく説かれるが、これらは大体において仙道、仏道、それに儒道はすべて「性」と「命」の修行を共に有しているとする観点に立つものが多い。「道竅談」では儒道については「性」や「命」を含むことについてあまり明確に述べることはしていないが、儒道では「礼楽」の実践が「性」や「命」の修行となっていたと思われる。こうした部分は後に静坐が取り入れられるによってより整ったものとなるが、静坐は基本的には仙道や仏道によるものである。また仙道も心斎や坐忘といった瞑想を本来は持っていたが、そこでは仏教の影響を受けて内的な部分の体系をおおいに充実させて行った。儒道で静坐についてあまり具値的なことを説きたがらないのは、詳しく述べていると仙道や仏道のそれに近くなるために他ならない。

道竅談 李涵虚(326)第四十章 仙道と仏道を共に修する(解説1)

  道竅談 李涵虚(326)第四十章 仙道と仏道を共に修する(解説1) 仏道は心を整える「性」の修行を主とするが、そこには体を整える「命」の修行が教外別伝として存している。また仙道は「命」の修行を主とするが、そこには「 教内真伝」の教えとして「性」の修行があるとする。本来「教外別伝」とは禅宗で仏教の教えである「教(経典)」によらないで、坐禅によって得られた体験を「別伝」としてより重視することをいうが、ここでは仏教の教えに含まれないものの修行体系には「命」の修行が存しているとする立場を説明するために用いられている。これに対して「教内真伝」は仙道の中には「命」の他に「性」が本来的に含まれていることを「教内」として教えている。仙道は「性」と「命」、仏道は「性」のみで、仏道は仙道に含まれるとしても良かったのであろうが、中国では多くの場合、仙道も仏道も共に「性」と「命」の修行を有しているとする。

道竅談 李涵虚(325)第四十章 仙道と仏道を共に修する(本文・下)

  道竅談 李涵虚(325)第四十章 仙道と仏道を共に修する(本文・下) そうであるから達磨初祖の「了道歌」には「三家の法は一つである。区別をしてはならない。性と命は共に修さなければならない。乾坤は毀たれることはない。人もまたどうしてそうでないことがあろうか」とある。また「三教が連綿と続いて来ているが、誰も知らないことがある。これを知ったなら三教に違いがるとは思わないであろう。それはただそれぞれの道を尽くすことである。そして道に帰するのである」とされている。今ここに一つの大いなる道の主人が居たとして、三教について説教をするとすれば「そう三教は、私の道の三つの柱である。これを分ければ三となり、合わせれば一となる。道は分けることはできない。それは変化をすることがないからである。道は何かと合わせることもできない。それは統合の中心を設けることができないからである。そうであるから三柱のそれぞれの極みをいうなら、仏道では性を言い、命は語られることがない。仙道では命を伝えるが、性は語られない。儒道は苦労をして世の中を渡ることで功をなす。そこでは性が語られることはない。命もまた触れられることは稀である。そうであるから儒道においては性命を修する道が語られることはない。そのため仏道や仙道の後ろに置かれることにもなる。仏道、仙道、聖道にはそれぞれ根本となる派があって、そこから個々に特色を以て支流に分かれ、天は移り地は変わって時が流れた。話をそうしたことの是非から始めて、とらわれのない境地に入ることが出来よう。仏道を奉ずる者が仙道を批判するとすれば、空にとらわれることのない境地へと脱して妙想を得ることが出来よう。仙道を奉じる者が仏道を批判すれば、現実のとらわれから脱して神想を得ることが出来るであろう。儒道を奉じる者が仏道を批判すれば、美しいだけの文章のとらわれから脱して真実を語る文章を得ることが出来るであろう。重要なことは竅(あな)が開けられて流れが良くなることであり、そうなるとどうしてあらゆることが道の分かれであることを知らないことがあろうか。道は既に三つに分かれているが、そうした中にどうして本流、支流の違いがあるであろうか。邪な道や正しい道の違いはないのであり、それは基本を考えれば分かることであろう」ということになろう。 ここに(道竅)談も終わることになる。性は命を兼ねて一脈となるので

道竅談 李涵虚(324)第四十章 仙道と仏道を共に修する(本文・中)

  道竅談 李涵虚(324)第四十章 仙道と仏道を共に修する(本文・中) もし命功が充分であっても、内に性の修行を尽くすことがなければ、つまりは真命を守ろうとしても、それはいたずらに色身を保つだけということになってしまうことであろう。これではどうして三界(過去、現在、未来)にわたって永遠であることができるであろうか。そうであるから仏道には教外別伝があり、つまり性によって命を立てるのである。極楽の地にあって、より空明を見ることになる。そして仙道には教内真伝がある。つまり命によって性を悟るのである。そうして大羅の天(天上界)において、ますます超脱を得ることになる。これが仙道であり、仏道なのであり、聖(儒)道なのである。 これは双修であって、単修ではない。そうであるから釈迦は禅定に入った時に貫頂穿膝の効果があった。迦葉が真実義を談じている時、倒却刹竿の不思議があったのである。試しにその意味を考えてみよう。呂洞賓祖師は「単修は性を修するが、命は修することができない。これは修行における第一の問題である」としている。張紫陽は「汝に真如の性を了悟することを許すとするならば、身を投げやることで、かえって身に入ることを逸することはできないであろう。そうしてどうして兼修の大薬を加えないことがあろうか。この身のままに超越をして煩悩を超えて真人となる。このおおよそのひとつを挙げれば、他を類推することはできるであろう」と教えている。行が般若にまで深まると五蘊はすべて空であるとの悟りを得ることができ、丹は熟して大還となる。十年面壁、六十にして理にかなうところのものは全て悟ることができる(耳順)。七十になると心に思うことで理にかなうものはすべて悟ることができる。そしてその後に性命を共に悟ることができ、虚空に上り超越をする境地に入ることができるのである。ここに仙道、仏道、聖道のすべてが成就することになる。

道竅談 李涵虚(323)第四十章 仙道と仏道を共に修する(本文・上)

  道竅談 李涵虚(323)第四十章 仙道と仏道を共に修する(本文・上) 「性命双修」こそは仙人となり、仏となり、聖人となるための原則である。また、仏道では命を修し、儒道は世を治めるだけのものとされることがあり、またそれぞれ違っているとされるが、それは仙、仏、儒の奥義をよく見極めていないからに他ならない。思うに仏道は確かに性を重視している。しかし、その中には「教外別伝」の教えがある。それは命であって、特に表に示されることはない。仏道で性の功を重んじるというのは、おそらく人は性によって命を立てていると考えられているからであろう。性の及ぶところは極めて広くあらゆるところに及んでいて、およそ及ばないところがない。 仙道は命を重んじる。またそうした中には「教内真伝」の教えがある。それが性でないことがどうしてあるであろうか。仙道では性について長々と説明をしていないだけである。命を重んじる学を修する者は、命によって性の悟りを得ようとしている。よく命根を永遠に固めることができれば、それは永遠に存して、尽きることも窮まることもない。つまり、性をして円満ならしめようとしなければ、立命の修行は成立し得ないのである。つまり真性はそれだけで存在することは難しいのであり、真命の無い真性はついには空寂に帰することになる。これで、どうして生きていくことができるであろうか。

道竅談 李涵虚(322)第三十九章 功なり名をとげたら身を引くの論(解説6)

  道竅談 李涵虚(322)第三十九章 功なり名をとげたら身を引くの論(解説6) 「致虚守静」は「虚を致して、静を守る」で、「虚」の境地であるならば「静」で居ることができることを教えている。これを逆にいえば「静」であれば「虚」で居られるということでもある。「杳冥恍惚」の「杳冥」は奥深く暗いようすで、「恍惚」はほのかで見定め難いとする意味がある。これはとらわれの無い意識状態をいうものである。こうした境地が得られれば「徳に通じ情を律する」ことが可能となる。「徳」とはあるべき行動を適切にとることができることをいう。そうなれば邪な欲望(情)もそれを制御することができるわけである。「杳冥恍惚」とは老子が「淵」として例えた瞑想の境地でもある。老子は第四章でこうした境地にあれば「鋭」を挫いて、「紛(みだれ)」を解くことができるとする。「功」や「名」を求めたり(鋭)、執着したり(紛)する意識状態から脱することができると教えているわけである。

道竅談 李涵虚(322)第三十九章 功なり名をとげたら身を引くの論(解説5)

  道竅談 李涵虚(322)第三十九章 功なり名をとげたら身を引くの論(解説5) 「天の道」とは先にも四大で触れたように「自然の道」である。そうであるから功や名にはなんら執着すべきものではないことが、天の道を知れば分かることになる。つまり「余慶」も「余殃」にも執着しないのが「天の道」なのである。たとえ功名を得たとしてもそれを「余慶」とは考えない。重要なことはあるがままに人生を歩むことである。そうであるからいたずらに社会的な働きを嫌う隠士の道も適当ではないし、ただただ社会的な成功を願う生き方も取ることはない。これが「 抱一還虚」とされる境地である。この「一を抱いて、虚に還る」の「一」は「虚」である。「無為自然」ということである。「自然」を抱いて、そこに還って行く生き方なのである。

道竅談 李涵虚(322)第三十九章 功なり名をとげたら身を引くの論(解説4)

  道竅談 李涵虚(322)第三十九章 功なり名をとげたら身を引くの論(解説4) 昔から中国には天命思想があり、正しい行いをした者は最終的には幸福になり、邪なことをする人は不幸になるとされている。こうした考え方は「善を積む家には必ず余慶(よいこと)あり。不善を積む家には余殃(わるいこと)あり」として「易」(坤卦)にも見えている。しかし、歴史的には「現実にはそうなっていないではないか」とする疑問が多く出された。確かにそうであろう。悪徳政治家や商人が栄華をむさぼり、正直に生きる人は慎ましやかであることがほとんどである。ただこれは「人の道」「修身の道」を基準に考えているからであるとするのがここでの主張である。

道竅談 李涵虚(322)第三十九章 功なり名をとげたら身を引くの論(解説3)

  道竅談 李涵虚(322)第三十九章 功なり名をとげたら身を引くの論(解説3) 老子が「王」を「道」を会得した存在とするのは、天や道に生成の働きがあることを認めるからである。社会において、生成の働きの頂点にあるのが「王」と考えるわけである。第三十六章では「道」「天」「地」「王」を四大としている。これは天、王、地で三才にあたるものであり、人の最も道と一体化した存在として「王」が示されている。老子は四大の関係を自然の働きを示したものが「道」であり、「道」の働きを示したものが「天」、「天」の働きは「地」に表れて、「地」の働きは「人」に示されるとする。「道」は森羅万象すべてに関わるもので、「天」は主に運命などのように人に関係する自然の働きをいう。「地」は地相、家相に代表されるように人に限定される自然の働きをイメージしている。そして「人」は人々の生き方でこれも本来は自然でなければならないとするわけである。

道竅談 李涵虚(322)第三十九章 功なり名をとげたら身れたを引くの論(解説2)

  道竅談 李涵虚(322)第三十九章 功なり名をとげたら身れたを引くの論(解説2) 『老子』の第十六章には「王とは天であり、天とは道である」とする。つまり「道」の実践者の第一として「王」があるというわけである。中国では王となる人は天命を受けていると考える。しかし統治がうまく行かなくなると、それは天命を失ったからとみなす。そうなると天命を受けた人物と王は交代することになる。こうした王はその位に執着することはない。ただ、そうした王が実際に居たかというとそうではない。伝説の時代を覗いて王の交代は革命によらなければならなかった。あらゆる社会矛盾を解消し得た王はいないのであるから実在した王が本当に天命を得たいたのかは判断できない。あるいは天命思想はその時代の王を正当化する、あるいは革命を死闘化するためのものとも考えられる。

道竅談 李涵虚(322)第三十九章 功なり名をとげたら身を引くの論(解説1)

  道竅談 李涵虚(322)第三十九章 功なり名をとげたら身を引くの論(解説1) ここでは『老子』第九章に見られる「功なり名をとげたならば身を退くのが天の道である」について述べている。これは社会的な成功を遂げたとしてもそれにとらわれないのが「天の道」であるとの教えである。老子は必ずしも社会的な成功を否定することはしない。それは荘子がやや隠逸の気風が強いこととは違っている。後世、道家といえば「隠逸の士」のイメージが強いが、老子は必ずしもそうではない。社会的な成功を道を得ている証ともする。こうした老子の思想は精神的なものを求める人たちからはとまどいをもって迎えらえることになる。

道竅談 李涵虚(321)第三十九章 功なり名をとげたら身を引くの論(本文)

  道竅談 李涵虚(321)第三十九章 功なり名をとげたら身を引くの論(本文) 『老子』(第九章)には「功なり名をとげたならば身を退くのが天の道である」とある。愚かな人が、天の道であると考えるのは、往々にして人の道であるに過ぎない。これは修身の道である。天には生成の働きがあるので、天の道にあれば名をとげることができる。物であればそれを育てることができる。しかし、最後には天の道にあれば身を退くものである。冬が巡って来るように身を隠すのである。これが天の道である。人が忠を尽くしたならば功名をあげることができるであろう。功がなったならば勇退をする。名をとげたら身を隠す。これは英雄が赤松子と遊ぶところのものである。あるいは孝を尽くすことでも名をあげることができよう。志をもって人と交わり、それを育てれば、一族の中で名を知られるようになるであろう。父母は百年にして、子として務めが終わる。そうなると退いて自らの命を養うべきである。これが人の道である。丹士は「致虚守静」をして無功の功をなす。「杳冥恍惚」として無名の名をなすのである。返還の功がなれば、聖胎の名をとげることになり、祖竅に身を退けることになる。「抱一還虚」は修丹の道である。徳に通じ情を律する。これを知る者はよく行うべきである。

道竅談 李涵虚(320)第三十八章 「不朽」を争う(解説6)

  道竅談 李涵虚(320)第三十八章 「不朽」を争う(解説6) 「 平坦の気」の「平坦」とは午前4時ころをいう。また「清夜」は清らかで静かな夜とされる。つまり「平坦の気」「清夜の神」とは夜が明ける前の静かな夜の「気=感覚」であり「神=意識」であることになる。そしてこうしたものは「まさに聖賢と違うところはない」と教えている。日が出るといろいろなものが動き出すが、4時あたりではまだそうした動きはない。動き出そうとして、いまだ動きが出てきていない。こうした「未発」の機を捉えることが重要なのである。意識が集中しようとして、それを強いて行うのではなく、次の思いが生じるままにする。また、いろいろな思いの波に流されるかと思っても、静寂な境地に思わず入ってしまうことがある。こうしたいろいろな変化の機を体験することが静坐では重要となる。

道竅談 李涵虚(319)第三十八章 「不朽」を争う(解説5)

  道竅談 李涵虚(319)第三十八章 「不朽」を争う(解説5) 中国では「中庸」が重んじられ、インドや西洋では「真理」が求められた。「中庸」とは適切であることであって、それは場合によって変化する可能性を有している。一方、「真理」は永遠不変のものでる。「易」の最後が「未済」であるのは、そこに変化の可能性を含んでいるからに他ならない。「未済」には「柔が中を得ている」とある。また「剛と柔とが相応じる」ともしている。システムとしての「柔(構造)」がベースであるから、それは剛にも容易に変化をすることができる。そうであるから静坐でも意識を集中させ過ぎることは好ましくない。また教義の刷り込みに用いるような静坐であるのも好ましくない。自由に思いの浮かぶままにしておくのが良いであろう。

道竅談 李涵虚(318)第三十八章 「不朽」を争う(解説4)

  道竅談 李涵虚(318)第三十八章 「不朽」を争う(解説4) 多くの人は「不朽」なるものを求めて安心しようとする。「こうやれば良い」と決めつける教えを求めてしまうわけである。「〇〇を信じれば良い」「〇〇に祈りを捧げれば良い」など、何かを「決めてくれ」という欲求を持つ。しかし、そうしたものは存してはいない。そうであるから「不朽」を求めるには、常に更新がなされなければならない。古いものは見直されなければならない。自分も変化し、環境も変化をする。そうした中に生まれる「不朽」なるものも、また時々に変化するものである。変化することで永遠であり続けることができる。こうした変化を追究することを「争う」としているわけである。

道竅談 李涵虚(317)第三十八章 「不朽」を争う(解説3)

  道竅談 李涵虚(317)第三十八章 「不朽」を争う(解説3) 「不朽」であるものは「聖」であって、「朽」なるものは「凡」であるとする。崩壊へと向かうシステムは「凡」で、そうでないシステムこそが「聖」であるというわけである。ただ、この世において「不朽」なるものは存していない。崩壊へと向かうシステムが、時々に更新されたならばまた新たな崩壊へのプロセスが生じる。そうなると形としては「不朽」と見える。つまり「徳」は「不朽」であるといっても、それがどのようなことであるのかを具体的に老子は述べてはいない。そして「徳」は「善」であるとか、「水」のようであるとするのみなである。静坐の実践者は自分が「徳」であると思うことを「徳」として常に追究して行けば良い。そうすると「徳」の具体的な内容は変化をするが「徳」そのものは永遠に続くことになる。

道竅談 李涵虚(316)第三十八章 「不朽」を争う(解説2)

  道竅談 李涵虚(316)第三十八章 「不朽」を争う(解説2) 「 釈迦は地から湧き出したのではない。鐘離権や呂道賓はどうして天から来るようなことがあろうか」とするのは、釈迦や仙人である鐘離権や呂道賓が「自然」に生まれたのではないことを教えている。しかるべき修行をしてある「境地」に達したのであるが、その初めは有為でなければならなかった。また静坐であれば、その方法は半跏趺坐か結跏趺坐で行うのが適当であるとされる。こういった教えは、これも有為といえる。またあまりに幻視や幻聴が生じる場合には目を軽く瞑るのであはなく、少し開ける(半眼)ようにするなどという注意点も幾つか存している。これも有為である。しかし、ある程度はそうしたものがなければ修行は成り立たない。あらゆる有為をすべて排しようとするクリシュナムルティの「瞑想」がなかなか実際には成り立ち得ないのも事実であろう。

道竅談 李涵虚(315)第三十八章 「不朽」を争う(解説1)

  道竅談 李涵虚(315)第三十八章 「不朽」を争う(解説1) ここでは「不朽」のものを「争」うことについて述べられている。「不朽」のものとは永遠なるものであり、それは「徳」「功」「言」であるとする。本来は「争」は存在してはいない。それを生み出しているのは人間の欲望や迷妄であるが、ただ道を求めることにおいては「争」うことがあっても良いと教える。ちなみに「争」うとは積極的、有為であるということで、道を志す場合には有為から初めなければならない。もともと人は道と一体となっているので無為であって良い。無為自然で道と一体のままであれば良いわけであるが、道を見失った状態ではそれをあえて求めなければならない。そこに有為が入ることになる。それを「争」うとしているわけである。

道竅談 李涵虚(314)第三十八章 「不朽」を争う(本文)

  道竅談 李涵虚(314)第三十八章 「不朽」を争う(本文) 古人に「太上(老子)は徳を立てることを説いた。その次には功を立てるべきである。そして言を立てるべきである」と言っている。この三つはともに「不朽」のものである。こうした「不朽の神」に存しているのは「道」である。三つが「不朽」であるのは「道」の助けとなるからである。仁慈の徳は道の体である。謙柔の徳は道の用である。(あらゆるものを救済する)普済の功は道の体である。修養の功は道の用である。そして「言」は功や徳を記すためのものである。つまり道を載せるための文ということになる。そうであるからこれをらにおいては共に「不朽」を争っているとされる。ここでの「朽」とはつまり「凡」ということである。「不朽」とは「聖」ということである。人はよく「不朽」を争うが、実はそうした争いそれ自体は存してはいない。また争う事が存しているとされることもあるが、(実際は)争うと事それ自体が無いのである。つまりその身を後にすることで、かえってその身を先にすることができるわけなのである。その志を柔らかにして剛に克つことができるのである。争うところがあるのは、つまり「男子の鬚眉」「丈夫の気骨」「英雄の果敢」「豪傑の猛烈」においてであろう。人と争いをしないでいられるのは一時であり、人と争うのは万古不変のことである。孔子は「まさに仁は師に譲らず」と述べている。「師」とは絶対に争うことのできない存在である。ここに自らは虚しくあって無勇を抱いている。これを先儒は「平坦の気、清夜の神は、まさに聖賢と違うところはない。人はよくこれに接してこれを充たせよ。そうすれば孔子や顔回にも劣ることはないであろう」と述べている。仏の教えには「よく仁であれば寂黙となる。これは釈迦と異なることがない。(空を悟る)般若の行が深ければ、どうして自在でないことがあろうか」と教える。道書には「釈迦は地から湧き出したのではない。鐘離権や呂道賓はどうして天から来るようなことがあろうか。これらはすべて道をして争い求めたのであって、必ずしも謙譲を優先させたのではない。志のある者は努めよ。古今東西の聖人は、人が共に道においては争うことを忌むのではないのであるから。

道竅談 李涵虚(313)第三十七章 神と意を再び論ず(解説6)

  道竅談 李涵虚(313)第三十七章 神と意を再び論ず(解説6) 「烹煉沐浴」と「温養脱胎」は同じことでただ静坐をするのみである。「烹煉沐浴」は内的な火による心身の浄化をいうものであり、「温養脱胎」では内的な火を育て(温養)、心身の浄化を促す(脱胎)ことになる。よく瞑想をしていて体がこわばるということを聞くが、それは内的な火が消えているためである。むりをして長い時間、瞑想をすると内的な火が消えて、意識も散漫となり、体がこわばってくる。静坐の時間は長すぎても、短すぎてもよくない。短すぎれば適切に内的な火が燃えるまでに至らない。静坐では適切な内的な火が燃えている状態を「春の夜の温かな風に吹かれているよう」としている。

道竅談 李涵虚(312)第三十七章 神と意を再び論ず(解説5)

  道竅談 李涵虚(312)第三十七章 神と意を再び論ず(解説5) 「 『有』をして『為』す」には真意によらなければならない。真意を働かせようとするのであれば無念でなければならない。無念であれば元神が開かれ、真意(有)による行動(為)をなすことができるようになる。真意による「有為」は、自然な行動であるからこれは「無為」と等しい。ただの意による有為は、自然の働きから外れているので、これは無為とはならない。多くの宗教では意による恣意的な行動を抑制するために寺院や修道院など特別な場所に隔離されることが必要であるとするが、そうしたことは必要ないであろう。いくら世俗と隔離されたところにあっても、真意が開かれていなければ適切な行動をとることはできないからである。

道竅談 李涵虚(311)第三十七章 神と意を再び論ず(解説4)

  道竅談 李涵虚(311)第三十七章 神と意を再び論ず(解説4) 「 真意を働かせようとするのであれば、煉己を先にしなければならない」とあるが「真意」とは「元神」によるもので本来の意の働きが示されることになる。「煉己」とは心を鎮めて本来の自己を見出すことに他ならない。すべては自己に関係するのであって、秘伝や奥義とされることもそれが正しいものであれば、それらのすべては自己の中に備わっている。そうでないものは自然ではないので、これは必要のないものである。煉己はただ自己を見つめるだけのことである。ただ自己を見つめていれば自ずから秘伝、奥義とされるものも見えてくる。

道竅談 李涵虚(310)第三十七章 神と意を再び論ず(解説3)

  道竅談 李涵虚(310)第三十七章 神と意を再び論ず(解説3) 後半では「無念」の重要性が教えられており、無念であるからこそ元 神を養うことができるとする。元神は「先天の神」であり、本来の神の働きをいうものである。無念とは無為のことであり、無為とは自然であるということで、自然の運動に違うことなく行動することが無為であって、無為とは行動をしないことではない。そうであるから無念も何も考えないということではなく。自然のままに考えるべきことを考えるということになる。ここで「自然」とするのは、自由に考えて良いということである。自由に考えることで自らのつまり小宇宙の自然を開くことができるようになる。そうしていると自ずから大宇宙の自然ともひとつになれるのである。

道竅談 李涵虚(309)第三十七章 神と意を再び論ず(解説2)

  道竅談 李涵虚(309)第三十七章 神と意を再び論ず(解説2) 瞑想時における無念無想の状態では、神と意とは分離している。これは神が休眠している一種の睡眠状態なのである。そうであるから無念無想をめざした瞑想の多くが自己催眠によっているといえよう。深い睡眠に入ると意は働かなくなる。これが浅ければ意は少し働くが神とは完全に一致してはいない。こうした状態が肉体の制約を超えて空を飛んだりするヴィジョンを見ることになる。つまり「夢」を見るのと同じことが生じるわけである。ヴィジョンを用いる密教などの瞑想は意を微弱に働かせることで、神も最低限の働きに止めようとしている。断食も神の働きを弱らせることで、意の活発な動きを抑えようとする。ただこうした方法は日常生活にもどるとまた神も意ももとに戻ってしまう。大変な苦行、荒行をしても、まったく煩悩が消えないのはこうしたわけであろう。

道竅談 李涵虚(308)第三十七章 神と意を再び論ず(解説1)

  道竅談 李涵虚(308)第三十七章 神と意を再び論ず(解説1) 「元神=神=意」であり、これらは本来はひとつのものである。しかし後天の神はいろいろな知識や慣習に影響されて先天の神である元神とは違った働きをするようになった。そうした動きに導かれた意もまた自然とは異なる働きをするようになる。意はそれを制御しようとしてもできるものではない。そこで神の働きを止めることで、意の勝手な動きを止めようとするのが無念無想の境地に入ることである。無念無想で、神が休眠状態に入れば意が邪な働きをすることもなくなる。それは意のすべての働きが無くなるからでもある。しかし静坐では人は完全に無念無想に入ることはできないとする。たとえ瞑想をして一時的に無念無想になったとしても、日常生活ではそれを保つことはできない。神が働かなければ、立つこともできないからである。

道竅談 李涵虚(307)第三十七章 神と意を再び論ず(本文)

  道竅談 李涵虚(307)第三十七章 神と意を再び論ず(本文) 目を閉じて静坐をする時、先ずは神と意がひとつとなっていなければならない。動と静とがそれぞれに生じれば、神と意は分かれてしまう。こうした時に神をして中宮を守る(ことで神と意をひとつにする)のであるが、意をしてこれを行ってはならない。「致虚守静(虚にあって静を守る)」において本来の状態に「復」するのをただ観察をする。一方では「臨炉の時」とされる、その時にはまさに「意」をもって中宮を守るのであって、この時に「神」を使うのは好ましいことではない。「鉛」をとって「汞」を制する。これは北斗星を掌握することであり、(神と意との)交わりの時にこれを得る。どういうことか。神とは無為である。一方、意は有為である。そうであるから神は無為であるが行うべきことが行われないということはない。意は有為によってものごとを行う。神は「意の神」であり、神をして真元とする。神は静を主としている。意は「神の意」である。神は意をして正覚を得る。意はよく動くものである。元神を養おうとするのであれば、とにかく無念を主としなければならない。そうすると無為にして行われないことのない境地を開くことができる。上陽子は『周易参同契』に注して「真人が深い淵に潜んでいる、とは無念をもって応じるということである。浮遊して規中を守る、とは無念をしてものを使うということである。呼と吸が相ともに関係して育て合う、とは無念であるからできることである。(老子、孔子、釈迦の)三姓が出会う、とは無念であることで可能となる」としている。無念の用は、これらに止まるものではない。真意を働かせようとするのであれば、煉己を先にしなければならない。そうした後に有為を使うことが可能となる。「有」をして「為」すのである。陸潜虚は『就正篇』で「煉己においては『鉛(心の安定)』を求める。『己』をしてそれを迎えるのである。『火(心)』を収めて『鼎(下丹田)』に入れる。『己』をして火を送って『烹煉沐浴』をする。これは『己』をして『火』を守ることである。『温養脱胎』は『己』をしてこれをなす。己(つちのと)土の妙はこうしたことに止まるものではない。『神』であったり、『意』であったりは、本当に金丹の終始に関係している。つねにこれらを離れることはできない。この他にも『神』と『意』にはいろいろな優れた働きがあ

道竅談 李涵虚(306)第三十六章 神と意の妙用(解説6)

  道竅談 李涵虚(306)第三十六章 神と意の妙用(解説6) 「 神」が「丹」となるのは、「神」が「ゆったりとして正しくあり、あるべき理を乱すことがない」状態にあるからである。「丹」は変容を象徴している。そうであるから「神」が丹となるとは、意識が変容するということである。つまり後天の神(神)から先天の神(元神)が開かれるわけである。「神」と「元神」は同じで「神」の中に「元神」が含まれるとイメージされようか。「元神」は清浄な心の状態であるが、「神」には欲望や知識などいろいろな刷り込みが行われていて、こうしたことが誤った「意」の働きを促してしまう。「神」が変容して「元神」を知ることができれば、「神」が「丹」となったとすることができる。

道竅談 李涵虚(305)第三十六章 神と意の妙用(解説5)

  道竅談 李涵虚(305)第三十六章 神と意の妙用(解説5) 静にあっては「神」が「運」を司るとする。「運」とは周天のことであるが、後天の周天であっても、そこに「静」が無ければ陽気の集中を得ることができない。ただ本来の「静」はこれを得ようとするのではなく、ただ静坐をしていれば自ずから生じてくるものでなければならない。静かに座っているのであるから、心も自ずから静かになって来る。これを意図的なことをして静を得ようとしても、一定のレベル以上に深いところには入って行けない。そうした「壁」を破るには意図的なことを捨てなければならない。そうした迂路をとるのであるならはじめから意図的なことをしない無為であるべきと静坐では教える。

道竅談 李涵虚(304)第三十六章 神と意の妙用(解説4)

  道竅談 李涵虚(304)第三十六章 神と意の妙用(解説4) 「元神」の「斡旋」「正覚」が求められているが、「斡旋」は周天と同じである。つまり無為自然において周天が起こることを「元神」の斡旋としているわけである。またこのことは「斡旋」が本来は自然に生じているということでもある。こうした先天(元神)と後天(神)が一体となった時の意識は本来あるべきの意識の状態なので、これを「正覚」としている。これは神を用いる周天ではない。神(後天の神)による周天は「意」を用いなければならない。そうなると先天と後天は分離しているので正覚を得ることはできない。