道竅談 李涵虚(307)第三十七章 神と意を再び論ず(本文)
道竅談 李涵虚(307)第三十七章 神と意を再び論ず(本文)
目を閉じて静坐をする時、先ずは神と意がひとつとなっていなければならない。動と静とがそれぞれに生じれば、神と意は分かれてしまう。こうした時に神をして中宮を守る(ことで神と意をひとつにする)のであるが、意をしてこれを行ってはならない。「致虚守静(虚にあって静を守る)」において本来の状態に「復」するのをただ観察をする。一方では「臨炉の時」とされる、その時にはまさに「意」をもって中宮を守るのであって、この時に「神」を使うのは好ましいことではない。「鉛」をとって「汞」を制する。これは北斗星を掌握することであり、(神と意との)交わりの時にこれを得る。どういうことか。神とは無為である。一方、意は有為である。そうであるから神は無為であるが行うべきことが行われないということはない。意は有為によってものごとを行う。神は「意の神」であり、神をして真元とする。神は静を主としている。意は「神の意」である。神は意をして正覚を得る。意はよく動くものである。元神を養おうとするのであれば、とにかく無念を主としなければならない。そうすると無為にして行われないことのない境地を開くことができる。上陽子は『周易参同契』に注して「真人が深い淵に潜んでいる、とは無念をもって応じるということである。浮遊して規中を守る、とは無念をしてものを使うということである。呼と吸が相ともに関係して育て合う、とは無念であるからできることである。(老子、孔子、釈迦の)三姓が出会う、とは無念であることで可能となる」としている。無念の用は、これらに止まるものではない。真意を働かせようとするのであれば、煉己を先にしなければならない。そうした後に有為を使うことが可能となる。「有」をして「為」すのである。陸潜虚は『就正篇』で「煉己においては『鉛(心の安定)』を求める。『己』をしてそれを迎えるのである。『火(心)』を収めて『鼎(下丹田)』に入れる。『己』をして火を送って『烹煉沐浴』をする。これは『己』をして『火』を守ることである。『温養脱胎』は『己』をしてこれをなす。己(つちのと)土の妙はこうしたことに止まるものではない。『神』であったり、『意』であったりは、本当に金丹の終始に関係している。つねにこれらを離れることはできない。この他にも『神』と『意』にはいろいろな優れた働きがあるが、すべては修行者が自得するべきことである。ここではいろいろな教えを集めて参考となるようにした。
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