道竅談 李涵虚(314)第三十八章 「不朽」を争う(本文)

 道竅談 李涵虚(314)第三十八章 「不朽」を争う(本文)

古人に「太上(老子)は徳を立てることを説いた。その次には功を立てるべきである。そして言を立てるべきである」と言っている。この三つはともに「不朽」のものである。こうした「不朽の神」に存しているのは「道」である。三つが「不朽」であるのは「道」の助けとなるからである。仁慈の徳は道の体である。謙柔の徳は道の用である。(あらゆるものを救済する)普済の功は道の体である。修養の功は道の用である。そして「言」は功や徳を記すためのものである。つまり道を載せるための文ということになる。そうであるからこれをらにおいては共に「不朽」を争っているとされる。ここでの「朽」とはつまり「凡」ということである。「不朽」とは「聖」ということである。人はよく「不朽」を争うが、実はそうした争いそれ自体は存してはいない。また争う事が存しているとされることもあるが、(実際は)争うと事それ自体が無いのである。つまりその身を後にすることで、かえってその身を先にすることができるわけなのである。その志を柔らかにして剛に克つことができるのである。争うところがあるのは、つまり「男子の鬚眉」「丈夫の気骨」「英雄の果敢」「豪傑の猛烈」においてであろう。人と争いをしないでいられるのは一時であり、人と争うのは万古不変のことである。孔子は「まさに仁は師に譲らず」と述べている。「師」とは絶対に争うことのできない存在である。ここに自らは虚しくあって無勇を抱いている。これを先儒は「平坦の気、清夜の神は、まさに聖賢と違うところはない。人はよくこれに接してこれを充たせよ。そうすれば孔子や顔回にも劣ることはないであろう」と述べている。仏の教えには「よく仁であれば寂黙となる。これは釈迦と異なることがない。(空を悟る)般若の行が深ければ、どうして自在でないことがあろうか」と教える。道書には「釈迦は地から湧き出したのではない。鐘離権や呂道賓はどうして天から来るようなことがあろうか。これらはすべて道をして争い求めたのであって、必ずしも謙譲を優先させたのではない。志のある者は努めよ。古今東西の聖人は、人が共に道においては争うことを忌むのではないのであるから。


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