道竅談 李涵虚(309)第三十七章 神と意を再び論ず(解説2)

 道竅談 李涵虚(309)第三十七章 神と意を再び論ず(解説2)

瞑想時における無念無想の状態では、神と意とは分離している。これは神が休眠している一種の睡眠状態なのである。そうであるから無念無想をめざした瞑想の多くが自己催眠によっているといえよう。深い睡眠に入ると意は働かなくなる。これが浅ければ意は少し働くが神とは完全に一致してはいない。こうした状態が肉体の制約を超えて空を飛んだりするヴィジョンを見ることになる。つまり「夢」を見るのと同じことが生じるわけである。ヴィジョンを用いる密教などの瞑想は意を微弱に働かせることで、神も最低限の働きに止めようとしている。断食も神の働きを弱らせることで、意の活発な動きを抑えようとする。ただこうした方法は日常生活にもどるとまた神も意ももとに戻ってしまう。大変な苦行、荒行をしても、まったく煩悩が消えないのはこうしたわけであろう。


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