道竅談 李涵虚(316)第三十八章 「不朽」を争う(解説2)
道竅談 李涵虚(316)第三十八章 「不朽」を争う(解説2)
「釈迦は地から湧き出したのではない。鐘離権や呂道賓はどうして天から来るようなことがあろうか」とするのは、釈迦や仙人である鐘離権や呂道賓が「自然」に生まれたのではないことを教えている。しかるべき修行をしてある「境地」に達したのであるが、その初めは有為でなければならなかった。また静坐であれば、その方法は半跏趺坐か結跏趺坐で行うのが適当であるとされる。こういった教えは、これも有為といえる。またあまりに幻視や幻聴が生じる場合には目を軽く瞑るのであはなく、少し開ける(半眼)ようにするなどという注意点も幾つか存している。これも有為である。しかし、ある程度はそうしたものがなければ修行は成り立たない。あらゆる有為をすべて排しようとするクリシュナムルティの「瞑想」がなかなか実際には成り立ち得ないのも事実であろう。
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