道竅談 李涵虚(324)第四十章 仙道と仏道を共に修する(本文・中)

 道竅談 李涵虚(324)第四十章 仙道と仏道を共に修する(本文・中)

もし命功が充分であっても、内に性の修行を尽くすことがなければ、つまりは真命を守ろうとしても、それはいたずらに色身を保つだけということになってしまうことであろう。これではどうして三界(過去、現在、未来)にわたって永遠であることができるであろうか。そうであるから仏道には教外別伝があり、つまり性によって命を立てるのである。極楽の地にあって、より空明を見ることになる。そして仙道には教内真伝がある。つまり命によって性を悟るのである。そうして大羅の天(天上界)において、ますます超脱を得ることになる。これが仙道であり、仏道なのであり、聖(儒)道なのである。

これは双修であって、単修ではない。そうであるから釈迦は禅定に入った時に貫頂穿膝の効果があった。迦葉が真実義を談じている時、倒却刹竿の不思議があったのである。試しにその意味を考えてみよう。呂洞賓祖師は「単修は性を修するが、命は修することができない。これは修行における第一の問題である」としている。張紫陽は「汝に真如の性を了悟することを許すとするならば、身を投げやることで、かえって身に入ることを逸することはできないであろう。そうしてどうして兼修の大薬を加えないことがあろうか。この身のままに超越をして煩悩を超えて真人となる。このおおよそのひとつを挙げれば、他を類推することはできるであろう」と教えている。行が般若にまで深まると五蘊はすべて空であるとの悟りを得ることができ、丹は熟して大還となる。十年面壁、六十にして理にかなうところのものは全て悟ることができる(耳順)。七十になると心に思うことで理にかなうものはすべて悟ることができる。そしてその後に性命を共に悟ることができ、虚空に上り超越をする境地に入ることができるのである。ここに仙道、仏道、聖道のすべてが成就することになる。


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