道竅談 李涵虚(325)第四十章 仙道と仏道を共に修する(本文・下)
道竅談 李涵虚(325)第四十章 仙道と仏道を共に修する(本文・下)
そうであるから達磨初祖の「了道歌」には「三家の法は一つである。区別をしてはならない。性と命は共に修さなければならない。乾坤は毀たれることはない。人もまたどうしてそうでないことがあろうか」とある。また「三教が連綿と続いて来ているが、誰も知らないことがある。これを知ったなら三教に違いがるとは思わないであろう。それはただそれぞれの道を尽くすことである。そして道に帰するのである」とされている。今ここに一つの大いなる道の主人が居たとして、三教について説教をするとすれば「そう三教は、私の道の三つの柱である。これを分ければ三となり、合わせれば一となる。道は分けることはできない。それは変化をすることがないからである。道は何かと合わせることもできない。それは統合の中心を設けることができないからである。そうであるから三柱のそれぞれの極みをいうなら、仏道では性を言い、命は語られることがない。仙道では命を伝えるが、性は語られない。儒道は苦労をして世の中を渡ることで功をなす。そこでは性が語られることはない。命もまた触れられることは稀である。そうであるから儒道においては性命を修する道が語られることはない。そのため仏道や仙道の後ろに置かれることにもなる。仏道、仙道、聖道にはそれぞれ根本となる派があって、そこから個々に特色を以て支流に分かれ、天は移り地は変わって時が流れた。話をそうしたことの是非から始めて、とらわれのない境地に入ることが出来よう。仏道を奉ずる者が仙道を批判するとすれば、空にとらわれることのない境地へと脱して妙想を得ることが出来よう。仙道を奉じる者が仏道を批判すれば、現実のとらわれから脱して神想を得ることが出来るであろう。儒道を奉じる者が仏道を批判すれば、美しいだけの文章のとらわれから脱して真実を語る文章を得ることが出来るであろう。重要なことは竅(あな)が開けられて流れが良くなることであり、そうなるとどうしてあらゆることが道の分かれであることを知らないことがあろうか。道は既に三つに分かれているが、そうした中にどうして本流、支流の違いがあるであろうか。邪な道や正しい道の違いはないのであり、それは基本を考えれば分かることであろう」ということになろう。
ここに(道竅)談も終わることになる。性は命を兼ねて一脈となるのであり、命は性を兼ねて一脈となる。渾(然)として性と命は一脈とならなければならない。仙、仏、儒の三脈は全て道を有する一脈である。これらは無に還って一となる。
偈(頌)には、
「ひたすら明かりを吹き消そうとしても。
しかし誰か知るであろう。
それは自分で自分を打つことであることを。
吾は言おう。
もし互いに打ち消そうとしても、
それは飛ぶ花を払おうとして吾が身に付くことのあるようなものであることを」
と。
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