道竅談 李涵虚(301)第三十六章 神と意の妙用(本文)

 道竅談 李涵虚(301)第三十六章 神と意の妙用(本文)

神は凝を貴ぶ。『周易参考同契』の「安静虚無」とは「内照形躯(体の内面を見つめる)」のことである。神は意は同じものではない。「意」を用いるのは「内照玄関(体の中の玄関を見つめる)」においてであるが、それには必ず「真意」が用いられなければならない。わたしは伍沖虚が「真意は虚無の中の正覚である」と言っているのを知っている。また陸潜虚は「上下を灌注する」といっている。それには必ず「元神」を動かさなければならないのであり、それは「元神」の斡旋、「元神」の正覚でなければならない。「元神」がそのまま「真意」であるわけはない。そこには自ずから体と用の区別がある。およそこれらを用いるには「杳冥無為(深い境地に入って無為)」でなければならないのであるが、こうした静の中にあって「運」を司るのが「神」である。ゆったりとして正しく、あるべき理を乱すことがない「意」でなければならない。そうなれば「神」は丹となり得る。「神」と「意」とには実に体と用の別がある。ここにおいて体と用とは分かれている。用とはつまり(神を含んでいるので)二である。用は体によるからである。そうであるからまた一物(である神)をしてこれを視ることができる。ただ無為であり「真意」を培養しようとするのであれば、「元気」を養わなければならない。真意は静が極まったところに生まれる。そうであるから自らの(神と意との)妙用を安定したものとしなければならない。そのためには道には常に応じ、常に静であらねばならない。これは儒家のいう「安んじて後によく慮る」ということであり、釈家のいう「定中に(智)慧を生む」である。


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