道竅談 李涵虚(280)第三十三章 神と息との妙用(本文)
道竅談 李涵虚(280)第三十三章 神と息との妙用(本文)
神とは「火」である。息とは「風」である。風と火の玄機を知ろうとするのであれば、神と息とを適切に安定させなければならない。神は「含光黙黙(内面を静かに見つめる)」を貴び、息は「真気綿綿(柔らかで途切れのない)」でなければならない。もし神を適切に安定させることができたならば、それは息にも及ぶことになる。これは炉の中で火を盛んに燃やそうとして、鞴(ふいご)で風を送るようなものである。また扇によって風を起こして火をますます燃え上がらせるようなものである。火が燃え上がれば燃え上がるほど金属はよく溶け(て不純なものは取り除かれ)る。
ここで見るべきは風が火の勢いを助けるということであって、火が風の勢いを盛んにするわけではないということである。これには機竅(重要な機微)がある。鞴の(空)気を盛んにして吹けば、それは必ず炉に通じ、そのことで適切に気が火まで通ることになる。鞴の(空)気は炉に通じて初めて、よくその火を盛んにすることが可能となるのであり、そうなると火力があがって火の色は青になる。
修行者は「凝神聚気(神と気が散漫とならないようにする)」すれば、つまり火が金を溶かすようになるのである。息は坎(腎=下丹田)の中に吹かれ、つまり炉に入って、風は火の勢いを盛んにするのを助ける。炉の中に火が発すると、陽光も輝く。この時に神はつまり気であり、気はつまりは神である。薬は火によって煉られ赤くなる。瓊カン(えいかん。 カンは「王」に「官」)翁が「火は薬であり、薬は火である」としているのはこうしたことによっている。火と薬は互いにひとつになって金丹が得られる。もし息を内的に吹かれるものではなく、ただに喉や鼻から出されるものと考えたのでは、それは炉には何ら影響することがない。こうした考え方は笑うべきものである。
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