三車秘旨(9)第一の河車

 三車秘旨(9)第一の河車

(本文)

それは日に夜があるようなものである。亥の刻(21時から23時)にはただ沈沈としており、それぞれの人の心は息(やす)んでいる。これは無知無識の時である。まさに暁の時には無知無識と(覚醒と)の接点を得ることができる。ここに一陽が来復する。これはまさに冬から春に移る時である。夜から夜明けへ、そのまま移行していく。驚くべきは煙の無いところに煙のあることである。気が無いところに気があることである。

(解説)

瞑想法では「無知無識」となることを目指すものもある。ヨーガなどでは長く瞑想をして行者のまわりに木が生えてその姿が見えなくなった、などという話もある。これは数十日も瞑想をしていたからそうなったわけで、生命活動を最小限に抑えることで、こうしたことも可能となるとされる。いうならば冬眠のような状態になるということであろうか(トリックの可能性もおおいにあるが)。ただ静坐ではこうした状態を好ましいものとはしない。「無知無識」から「一陽来復」した覚醒の状態、生命活動の活発である状態でなければならないとする。「静」であるが生命活動が活発である。これを「妙」とする。


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