三車秘旨(7)前言(解説6) リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ 5月 08, 2021 三車秘旨(7)前言(解説6)心の自由さを求める瞑想はしばしば心の統合を失わせることになる。そして自他の区別が合曖昧となると日常生活を送ることが難しくなってしまう。ただ正常な日常生活を送ることができるということは「規範」にとらわれているからとも言える。しばしば奇行をするような宗教者の言うことが時代を超えて「価値」を持っているのは、それらの意識が日常の「規範」から逸脱しているからに他ならない。 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ コメント
静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(5) 8月 08, 2021 静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(5) 八卦掌居敬窮理学派における静坐には「敬字訣」があるのみである。「敬(つつしみ)」は中国語で「チン」であり、これが「静(チン)」に通じるので、心に「敬」字を思えば自ずから気持ちが静まるとされている。ただ日本人はこうした音のイメージの共有はなかなかできないので、それ程有効ではないであろう。静坐はただ座っていれば良い。それにより「性」は自ずから開かれる。ただ座っているといろいろな感覚が出てくる。静坐を続けることはその変化を楽しめるようになると苦痛ではなくなる。しかし、それまではなかなか興味が持てないかもしれない。その期間を越えるための方法として敬字訣などいろいろな瞑想技法があると静坐では考えている。 続きを読む
静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(4) 8月 07, 2021 静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(4) 中国の儒教の文献を見ると静坐について書いたものが実に多いが、そのやり方についてはほとんど触れることがない。それは儒教で「禅宗は座り方の練習をしている」と批判することとも関係している。確かに結跏趺坐は容易にできるものではない。日本の禅の修行の第一は坐法の痛みに耐えることにあるともいう。儒教はそうではなく精神的なものを涵養して人が本来持っている「性」の働きを開くことを目的としているのであり、坐法などの瞑想テクニックにこだわるべきではないと主張している。しかし、静坐をするには何らかの方法がなければやり難い。それを説明すると坐禅と大差の無いものになってしまう。こうした矛盾があるので儒教関係の文献ではほとんど坐法の説明がないのである。日本でも近世あたりには朱子学や陽明学を研究する人たちの間では静坐がよく実践されていた。ただ日本における儒教の伝来は書物を通してであるために静坐についてもそれぞれが考えて行っていたようである。近世の儒家の伝統は近代になって一旦途絶えて、アカデミズムの中で復活することになる。そこではすでに静坐の実践はまったく顧みられなくなってしまう。 続きを読む
静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(1) 8月 04, 2021 静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(1) これまでで西派のテキストの翻訳と解説を終えることができた。使ったのは台湾の自由出版から出ている道蔵精華「太上十三経注釈 道竅談三車秘旨 合刊」である。西派はそれまでの神仙道の秘伝、秘訣を集めて体系化しようとしている。その意味ではパズルを解くような面白さがあるが、実際の静坐をしよとするのにはあまりに煩雑であるともいえる部分もあったことであろう。来週よりはこの内丹のブログを外丹のブログに統合して「道徳武芸研究」と題しようと考えている。「道徳武芸」の「道徳」とは『老子』のことでそれをベースにしようと考えている。およそ『老子』と『孫子』は数ある中国古典の中でも卓越した価値があると考えている。よく『老子』は『莊子』と同列にして扱われるが、『莊子』が隠逸の傾向が強いのに対して、『老子』は市井にあって超俗をめざそうとする指向性が高いように思われる。否「超俗」というよりアナーキーといった方が良いかもしれない。 続きを読む
コメント
コメントを投稿