三車秘旨(21)第二の河車

 三車秘旨(21)第二の河車

(本文)

水が華池に満つると流れ出してしまう。これが絳宮に至ると気持ちは清涼となる。黄庭に至ると、心火は安らかとなる。これを「鉛をひいて汞を制する(抽鉛制汞)」「虎を牽いて龍を降す(牽虎降龍)」という。未(ひつじ=土)の二つの卦(乾坤)を周流して止むことがない。これが「玉液煉己」である。ただこの「玉液」は日々常にそれがあるというものではない。これを得るには運気の工夫をしなければならない。気を運ぶこと何回かで、その時が至って、玉液が得られることになる。そうなると黄中(中庸)に気は治まり、皮膚には潤いが生まれ、心は静かで安らかであり、性体は光り輝き、外的な事象にとらわれることもない。欲望があってそれが生じてもそのままにしてこだわることもない。俗塵に中にあってそれに染まることもない。真意は堅く護られて、鋭く働いている。また欠けたところもなく、光り輝き、赤が明らかで、信は純粋である。これは煉己純熟の時のことである。ここでは三車の功夫について述べているが、また以下でもこれについて述べている。

(解説)

静坐が一定の安定した状態に入ることをここでは「玉液煉己」としている。華池の「水」が「玉液」と変わる変容の瞬間を体験することが大切であると教えているわけである。ここで「煉己」は一定の成就を得ることになる。静坐はただ静かに、動かないで坐っているだけであるが、こうした変容の瞬間は必ず来る。それを待つためにいろいろなイメージ法やテクニックが考えられているといっても過言ではなかろう。これは漢方なども同様で直接病気を治すというより当面の苦痛などを和らげて自然治癒力の働くのを待つことが主となる。このように直接的に目的とするものを得ようとしない方法はなかなか理解されないようである。


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