三車秘旨(47)収心法を問う

 三車秘旨(47)収心法を問う

(本文)

儒家と道家とでは養気の方法が同じではない。自然の気を養えば『生』(への悟り)を得ることができる。浩然の気を養えば『生』も『死』も(悟りを)得ることができる。古来より志のある者や仁を実践する者は、危機に際して自分の使命を知るものである。自らを殺して仁を実践するのもそのひとつであろう。これを養うには、ただに義理の心がなければならない。これが宇宙レベルにおいて働いていることを知るのである。そうであるから孟子は「それは気であり、至大、至剛で、これを養って何らの害もない。これは天地の間を塞いでいる」と言っている。義の実践を積み重ねるのが、道家のいう養気であり、その真を保つことになる。必ずしも危機に際して義の実践をためらうものではないし、必ずしも身を殺して早々にこの世を去ることもない。『易』では『幾を見て始める。日を置くことはない』とある。これが君子というものであろう。

(解説)

「幾を見て始める」は天「機」によって物事を始めるということである。一般には自然の気を養うのが道家で、浩然の気を養うのが儒家であるとされるが、ここでは道家は儒家の更に上を行くものと教えている。儒家では仁を実践するのに我が身を顧みないが、道家では必ずしもそうした生き方を採らない。「義」とは人として行うべきことであるので、そうであるなら「義」の実践は自然な行為ということになる。自然の行為である「義」を行うのであるから、その実践によって意図的に我が身を滅ぼして「義」が実践されるようなことは無いことになる。我が身を滅ぼさなければ仁や義の実践できないというのは、その仁や義がどこか人為的なものであって、真の自然と一体となった仁や義ではないためと考えられるのである。


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