三車秘旨(54)道情詩詞
三車秘旨(54)道情詩詞
(本文)
「修真の人は一点の凡心も生ずることはない。ここに我の語るを聴け」
山や泉の濁れるに出て山の清きにある
往時を悔いて遠くに赴くの詩を賦す
たちまちに僅かでも華やかなことを見れば
俗世の忘れがたきを知るのみ
(解説)
今は俗世を離れて清らかな生活をしているが、華やかな俗世を見てしまうとまたその楽しみが思い出されることのあることが語られている。静坐では特に守るべき決まりというものはない。俗世を否定するものでもない。本来は「凡」も「聖」もないのが静坐の世界である。修真の人は「凡」心の生ずることが無いというが、自分は修真の修行をしているが往々にして「凡」俗の心が生じるという。静坐はこれで良いとする。無理に俗世を否定をして凡心に捕らわれるよりは、時には凡心を満たすようなことをしても構わない。
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