三車秘旨(48)収心法を問う

 三車秘旨(48)収心法を問う

(本文)

道家の初功は、すべからく自然の気を養うべきであるが、それではあえて問おう、『自然の気』とは何であろうか。『自然の気』を言い換えればただ『気』ということになる。至小で至柔であり、あるべきでない方法(曲)をもってそれを養っても害されることはない。つまり虚空の中に気を聚(あつ)めるのであり、その精の集まるところに生ずるのは、道家の還丹である。これはまた浩然の気であり、この気を得たならば、命の危うきに逢うことになる。身を殺して仁をなす。古来よりこれを『刀解』という。究極においては神奇たること測り難い。変化は思いも及ばず、これはなんとも儒家とは違っていることであろう。あるいは死して後に、そこに自己を見ることができよう。大人が転じて少年となる。仙人も客も等しく遊ぶのであるが、これがつまりは還丹の成就であり、身外の身である。

(解説)

ここでは「自然の気」について更なる考察を加えている。「自然の気」とされるものは、ただに「気」として還元されるものなのであって、それは浩然の「気」とも共通している。つまり道家と儒家は「気」という概念に基づく時には「自然の気」も「浩然の気」も同じものとして理解することができるわけである。また生前も死後も「気」の流れの中にあるのであるから何らの変わりのないものなのであって、大人も子供も、仙人であっても俗人(客)でもすべて等しく「気」として存在しているに過ぎない。


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