道竅談 李涵虚(175)第二十一章 再び玄関について(本文)

 道竅談 李涵虚(175)第二十一章 再び玄関について(本文)

玄関には神と気の交わる霊光が存している。始めて玄関を見た時には霊光は点ったり消えたりして定まるところがない。初めて玄関に入った時にはぼんやりとした感じで依るところがところが無く、神と気はひとつになっても、これが安定することがないのである。しかし神と気の交わりが熟してくると不動の心(死心)から離れることは無くなり、ここにおいて始めて玄関の中では他人も自分もその存在を共に忘れてしまうものであることを知るのである。こうした境地は鬼神もはかり知ることができない〈これを離れては無常のとらわれから免れることはできない〉。玄関の中は混沌としており、常に変化をしているので、玄関の中は玄妙であり、あらゆる変化が生じて、それぞれの名を述べることはできないほどであるが、これを不思議とするには足らない。それぞれの人によって受け取り方は違っているに過ぎない。そうであるからそれぞれに名が付されるのであり、その用いられ方によって、いろいろな呼ばれ方もされる。そうであるから古い時代の神仙道の師たちはその名を秘して語ることがなかった。ただ入門の儀式を済ませた者のみに教えを述べたのであるが、それは誤りを諭すもので「玄関は心ではない。腎でもない」ということに過ぎない。これは、ここで私の言っている玄関は黄庭、気穴、丹田でないというのと同じである。ここに再び同じことを述べておくが、これを知る者は秘しておかなければならない。

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