道竅談 李涵虚(178)第二十一章 再び玄関について(解説3)

 道竅談 李涵虚(178)第二十一章 再び玄関について(解説3)

ここでは最初は「神と気はひとつになっても、これが安定することがない」とある。修行をしていても心身が安定する感じが得られることもあれば、そうではないこともある。誰でも時に「至高体験」と称されるような特殊な心身の状態を持つことはあるであろうが、それはしばらくすると忘れてしまう。修行においては、そうしたことにいちいち気を取られることなく、日々行を重ねていくことが大切である。そうなると「死心」が得られる。この場合の「死」とは「活動をしなくなる」という意味であり、仏教でいうところの止観の「止」と同じである。これは神仙道では「とらわれの無い心」とすることができるであろう。以下は「止」による正しい認識の得られる「観」について語られている。

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