道竅談 李涵虚(182)第二十二章 二つの孔穴(両孔穴)の法(本文)

 道竅談 李涵虚(182)第二十二章 二つの孔穴(両孔穴)の法(本文)

丹家には一つの穴がある。一つの穴には二つの孔がある。その中は空であり、その両端に竅(あな)がある。そうであるからこれを「両孔穴」という。師の伝える口から口、竅から竅へにおいてもこうしたことが存している。任脈と督脈の交わるところ、陰陽の交わるところ、烏と兎の行き来をするところ、一穴両孔とは、こうした中にある作為の法(則)のことなのである。この法は最も玄である上にも玄である。『周易参同契』には「上を閉じることを『有』と称する。下を閉じることを『無』と称する。『無』は上に奉じられ、上には神徳が「有」る。この両穴の法では金気も共に留まっている」とある。「金気も共に留まっている」とはすべてが含まれていることを意味している。「上」「下」は天地である。「閉」は深いところでひとつになるということである。「有」「無」は妙竅のことである。「称」とはそういうということである。一上、一下にはすべからくこの穴の間にある。それは有るようであり、無いようでもある。あらゆるものはすべてこの穴の内にあるのである。それはまさに致虚守静、天地冥合の時ともいえよう。「有」をもってその妙を見るならば、妙はそこに「有」る。それは名づけることのできないものであるので、ただ「有」るということしかできない。いわれるところの「窈冥有精」にあっては、その中に「信」がある。「無」をもってその竅を見れば虚無の竅ということになる。これを説明しよとしても説明はできない。そうであるから「無」というのである。いわゆる「その中に物があり、無物に帰する」ということで、老子は「無状の状」「無象の象」と述べている。「これを迎えてもその首を見ることはできず、これに随ってもその後ろを見ることはできない」とある。丹法いおいては「無」を上とする。

〈参考『老子』第二十一章 孔徳はこれ容(い)れる。これ道、これ従う、(略)恍たり惚たり。その中に物あり。窈(よう)たり冥たり。その中に精あり。その精はなはだ真なり。その中に信(まこと)あり。

第十四章 (略)これを無状の状、無物の象という。これを恍惚という。これを迎えて首を見ず、これに随いてもその後を見ず。〉

コメント

このブログの人気の投稿

静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(5)

静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(4)

静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(1)