道竅談 李涵虚(196)第二十三章 玄牝基根(本文 下)

 道竅談 李涵虚(196)第二十三章 玄牝基根(本文 下)

「玄牝」とは一乾一坤である。一剛一柔である。そうでなければ、つまり神が活発で気が活発であるとかえって共に反発をして、互いが離れてしまうことになる。このために男をして女の下に置き、神をして気の下に置くことになる。このように転倒をして共存するのであり、それは陰陽が共に交わるということでもある。ここに神と気がひとつになり、根基が立つことになる。そうでなければつまり神はただに神であり、気はただに気であるに過ぎない。気がそのままで気であって、神がそのままで神であれば神は気を得ることはできない。つまり神を補う「物」がないということになる。気が神に帰することがなければ、つまり神を養う「用」がないとういうことになる。

元神をして長くあらせしめようとするのであれば、それを得るべきであろうか。また神が絳宮にあれば、絳宮(中丹田)はいうならば(気との融合を行うので)政治であれば実務

を行う政庁ということになる。知見見聞はすべれこれを乱すであろう。これが黄庭(下丹田)で安定すれば(凝)、そのうちに(雑念の)響きは絶えてしまうことになる。雑念は除かれるわけである。これが清養でなければなんであろうか。そうであるから『悟真篇』には「谷神を長く生かしておこうとするのであれば、玄牝によって根基を立てなければならない」とあるのである。真精がすでに黄金室に返っていれば、一粒の明珠が長く離れることがない。「谷神」とは至虚、至霊の汞性である。「真精」とは至清であり至嫩(どん)の鉛情である。「根基」とは汞をもって鉛を迎えて、金丹の地を作ることである。黄金室とは黄房のことで、これは返金の地である。そうであるから黄金室という。金鉛と木汞は交わると同時にまさに一つの明珠となる。「明珠」とは一粒の金丹である。大きさは黍粒ほどとされる。これは金が来て性へと帰する初めとなる。そうであるからこれを「還丹」と称する。「一」を得て「永」を得るので、「永く離れず」とある。まさにこのことを紫陽は詩にこう詠っている。

直ちに明らかにする。千古の真訣。

先天、後天みなまさにこれよろし。

われの言うところは先天なり。

これを後天をして論ずるならば、まさに先に玄牝を求めなければならない。そうすることで丹基を築くことができる。また「谷神」はこれによって立つことができる。つまり真性がこれによって返ることになるわけである。玄牝をして谷神を養い、谷神をもって真精を養う。神は精を得て元を培うのであり、精は神を得て気を化するのである。『周易参同契』には「内は己を養い、安静虚無とする」とある。また「性は内に居り、体を立てる」ともある。こうした修身の要を知らなければならない。それは必ず先に静をして谷神を養って根基を作ることなのである。

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