道竅談 李涵虚(203)第二十四章 「中」の意味(本文上)

 道竅談 李涵虚(203)第二十四章 「中」の意味(本文上)

『老子』(第五章)には「多言を弄するよりも中を守ることである」とある。これはつまり「中」とは聖賢や仙人、仏となるための「種」であることを述べているのである。「中」でなければ修道を行うところを失うことになる。「中」を失ったところに足を下すと魔坑に陥ることになる。「中」とはどいうことであろうか。それは「玄関」である。『周易参同契』には「運移して中を失わない。浮遊して中を守る」とある。これはすべて「中」のことを述べている。陶(弘景)仙は「中は四方、上下の中である」とする。儒教では「喜怒哀楽の未発」の状態が中であるという。道教では「思いが動かないところが玄牝である」とする。仏教では「善を思うこと無く、悪を思うことも無い。まさにこの時、これこそが本来の面目である」とする。つまりこういったことが真の「中」なのである。「中」の境地の妙は「養己凝神」「入室還丹」にある。そうして「脱胎神化」にいたるのは「中」をおいて他には無い。そうであるから道の修行に初めて入る人は、この「中」を知る必要がある。つまりそれが無ければ先へと進むことはできないからである。かつて文始天尊は太上に道を問うて「修身の至要はどの章にありましょうか」と言ったところ太上は「それは深根固蔕、守中抱一にあるのみである」と教えた。

ただ今ここでは初心の修行者がやるべきことを述べてみよう。初心の修行者は姿勢をしっかりと整えて睡魔と闘わなければならない。軽く目を閉じてあらゆる妄想から脱しなければならない。そして「三穴」に廻光返照をする。「三穴」とは黄庭、気海、丹田である。「三穴」に返照するといっても「三穴」に意識を集中するのではない。殊更「三穴」を意識することのないようにする。廻光返照をした後には心が安定する。息は自然のままでこれも特に意識することはない。ある意味においてまったくもって兆しもないのであるが、それはまさに「無欲でその妙を観る」とされる、まさにその時なのである。「致虚守静」の時、「神凝気合」の時、不意に一なる境地がたちまちに中より出現する。その大きいことは限り無く、その小さいことも限りが無い。つまりこれは「玄関」の現象なのである。これは『老子』(第一章)にあるまさに「有欲でその竅を観る」という、その時なのである。

 

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