道竅談 李涵虚(210)第二十四章 「中」の意味(本文下)

 道竅談 李涵虚(210)第二十四章 「中」の意味(本文下)

ただ今ここでは初心の修行者がやるべきことを述べてみよう。初心の修行者は姿勢をしっかりと整えて睡魔と闘わなければならない。軽く目を閉じてあらゆる妄想から脱しなければならない。そして「三穴」に廻光返照をする。「三穴」とは黄庭、気海、丹田である。「三穴」に返照するといっても「三穴」に意識を集中するのではない。殊更「三穴」を意識することのないようにする。廻光返照をした後には心が安定する。息は自然のままでこれも特に意識することはない。ある意味においてまったくもって兆しもないのであるが、それはまさに「無欲でその妙を観る」(『老子』第一章)とされる、まさにその時なのである。「致虚守静」の時、「神凝気合」の時、不意に一なる境地がたちまちに中より出現する。その大きいことは限り無く、その小さいことも限りが無い。つまりこれは「玄関」の現象なのである。これは『老子』(第一章)にあるまさに「有欲でその竅を観る」という、その時なのである。

また(第二十二章で触れた)『周易参同契』の「上を閉じることを『有』と称する。下を閉じることを『無』と称する」を再びここで考えるとすれば、そこには「上」と「下」の二字のあることが分かる。これは「中」を忌している。そこに陰陽が往来し、そこでは坎離が昇降している。つまり「上」と「下」を合わせて「中」となるというわけである。そうであるから「上」は「下」を閉じることで、密やかなるものを封じることになる。太虚の中、そこで元気はひとりで働いている。そうであるからこれを「無」という。これはまた「妙」を観るということでもある。「下」は「上」を閉じることで、いまだ見えざるものを隠し持っている。そうであるから暗闇の中に「精」があるのであり、その中には「信(まこと)」がある。このために「有」というわけである。これはまた「竅」を観るということでもある。「上閉」「下閉」はすべて「玄牝」の中に帰することになる。「無欲」「有欲」はことごとく「玄微」において存している。そうであるから「玄関の一竅」と称されるのであり、「有無の妙竅」と称するのである。「上下釜」というのである。「陰陽の鼎」「神気穴」とするのである。これらはすべて以上に述べているようなことをいっているわけで、つまりはすべてが「一」なる「中」であるということになる。

師はここに述べられていることについて「道を学ぼうとするのであれば、道を学ぼうとするのであればね、先ずは『妙』を得なければいけない。『妙』を得ること無く、『竅』を知ることはできない。『竅』を知ろうとするのであれば、逆に『道』を聞かなければならない」と言われたので、私と団陽はややして笑いをこらえることができなかった。

(一部修正)

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