道竅談 李涵虚(224)第二十五章 薬物について(本文下)

 道竅談 李涵虚(224)第二十五章 薬物について(本文下)

坎は北で、兌は西で隣り合っている。そうであるから坎は兌に寄り添っていることになる。これを「兌金」と称する。この「金(陽)」を求めようとするのであれば、それを「乾」に求めるのではなく、「坤」に求めるのでもない。これは「兌」に求められなければならない。「乾」に求めないのは、「乾」は「種」を播くところであるからである。「坤」に求めないのは、そこが「元」を含んでいるからである。「坎」に求めないことがあるのは、「坎」には陽が有るものの水(陰)が存しているからであり、いまだ気機が現れていないからである。

直ちに「金」を「兌」に求めるのは、「鉛」の中から陽が産まれるからである。すでに「金」が現れていれば、それを「初三(陽)」とすることができる。月は庚方(兌と同じ西)に出るものである。そうであるから「坎水(陰)」をして川の源流とするのであり、「兌金(陽)」を薬物とする。ただ実際に体の中に乾坤坎兌があるわけではない。これは「有」をして「無」を生むものなのである。「我」をして「彼」を求めるものなのである。

「我(心の一陰)」は一点の陰火の精を運ぶのであるが、種は「彼(腎の一陽)」の家の中にある。つまり「鉛」の中から陽を得るわけである。陽気が一動したならこれを採取して「彼」へと帰す。また種は「我」の家の胚胎宮の中にあるので、これにより真人となることができる。『悟真篇』には「かの『坤』のところに『体』が生まれる」とある。種は乾の家にあるのであるが交感宮とはこのことである。種とは乾の種である。これを始めに播くのである。種は乾の家の種となる。これは「養育」されなければならない。

崔と張の二翁の「復起」は、愚かな考えをしてこれを解すればまさに「復起(また性器が起つ)」ということになろう。種鉛が鉛(陽)を得るとされるのはこうしたところにある。ただその種鉛の法は、丁と壬の間にあらなければならない。そしてその後、震兌を得てこれに替えるのである。我が師の口訣には「ともに知るべきは内外二薬の真機である」とある。今ここでそれを明らかにしている。我の言葉を得た者は三年にして成就を得ることであろう。これを軽視してはならない。

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