道竅談 李涵虚(238)第二十七章 鼎器の奥義(本文)
道竅談 李涵虚(238)第二十七章 鼎器の奥義(本文)
丹法にあっては乾坤をして鼎器とし、坎離をして薬物とする。坎を採って離に充てる。ここに金が始めに還ることになる。およそ坤の六段の形(で三本の線の中央に穴が空いていて六本となっているの)は、その体が虚であるためであり、これは基本的には極陰となる。そこ(純陰)に一陽来復する。乾の形は三つが連なっている。その体はすべて実である。天の勢いである盛陽(純陽)に、一陰がたちまちに生じる。天地の間にあって実であるものは他の物を容れることができない。虚であるからこそ他の物を受け入れることができる。そうであるから坤の虚にこそ実を蔵することができるのである。そうであるから乾の実を先に虚に投ずる。法功はかくの如くである。
また金の移転についても知らなければならない。これにより薬の熟す具合を知ることができる。先天の乾金を坤に隠す。この時、陰の中に陽を含むことになる。これは坎の中に一(陽)があるのに似ている。こうして(一陽は)水底に形を隠しているのであり、秘していまだ露わになっていないが、ここ(水中)にあってこそ水の中の金は現れることになる。これは兌西から月が出るのに似ている。まさに用いるべきは金なのであり、これを一つの陰陽の形に採るとすれば、これは気が有って質の無い状態である。兌(陽陽陰)に取るのは、まさに(二陽一陰であるから)坎(陰陽陰)に取るのと同じとなる。兌に産するもの(陽)は、坤に産するのである。そうであるからこれは乾父の精光そのものではない。そこに大薬を得産することはできない。
「彼」が主となることを許す。「我」は反対に客となる。「彼」を上に浮かせて「我」は下に沈む。客と主の浮き沈みはすべて鼎の中のこととなる。そうした後に鼎器を設けることを知らなければならない。この妙は空にある。陶(弘景)真人は「鼎器の中は本来は何も入ってはいない。二七の時に、乾父の精光に感じ触れて、陽気が始めて動くのである。乾鼎の中もまた本来は何も無い。採取の時、坤母の陽鉛を吸い受けて金丹が始めて凝るのである。これらのすべては空が開くことによってなされる。そうであるから、鼎器はこれを仮のものに過ぎないといわれるのである。これをして盛んなる物の器とする。それは最も妙なる奥義を語ったものである。よく知らなければならない。
コメント
コメントを投稿