道竅談 李涵虚(259)第三十章 河車の奥義(本文 上)
道竅談 李涵虚(259)第三十章 河車の奥義(本文 上)
河車の奥義とは得薬運行にあるのであり、イメージで気を巡らせるところにあるのではない。つまり子午の進退、陰陽のガイ闢、内外の昇降、天地自然の火候にあるのである。築基が成って金鼎が充実したら内息を調え、内神を凝めて、神と息とを協調させて、風と火をを交わらせる。そうすると忽然として霊芽が萌(きざ)し、気機が動き始めるので、すぐに河車をしてこれを煉る。河車をして下(丹田)から背中の督脈を進んで、逆流して天谷へ行って、中宮へと返る。これは得薬の時には行わなければならないものであるが、惜しむらくは今の人がこの真伝を知らないことで、多くはイメージで気を巡らせることであると思い込んでいる。こうした意味のないことをしても何ら益するところはない。ただ妙縁を得られた少数の人だけが悟りを得ることができたのであり、仙師の教えは聞き難いものである。
いま試みに河車の奥義をここに述べてみよう。その妙は意をして内を守ることにある。神を外に向かわせず内に収める。そうすれば自ずから河車はなるとするのが仙師の教えである。あるいはここに疑問が尽きることがないかもしれない。つまり真神とは真意なのであって、これらを分けることはできない。内を主とするが外も主となる。どうして内外を二つに分けることができるであろうか。こうした疑問が出るのは当然であろう。
神をして内庭を守ることを知らなければならない。これはただ「凝」を貴ぶのであって、気を巡らせることを重視するのではない。気を巡らそうとすれば必ず意を用いなければならない。周天の妙は外を動かせば、内う動いてしまうところにある。そうであるから内を動かそうとするならば必ず意をもってそれを行わなければならない。これを人に譬えるならば、灯火の前に座っていて、その影が壁に映っており、体が動くと影も動くようなものである。また声を部屋の中で発すれば、外にも聞こえるようなものである。つまり「意」とは神自身とそのお告げであれば神自身のようなものなのである。つまり「意」は影と声であるので、これらだけを見たり、聞いたりすることはない。そうであるから「意」をもってその内を動かすのであるが、その時「神」は自ずから外に現れることになる。これらは二つのことであるが一つことである。内で気を運ぶことは、外で気を運ぶことであり、他のことではない。
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