道竅談 李涵虚(260)第三十章 河車の奥義(本文 下)

 道竅談 李涵虚(260)第三十章 河車の奥義(本文 下)

これらは自然に知ることができるであろうが、「真意は中にある」とされる真意とは何であろうか。それは呼吸を調えて、内をして外に応じさせることである。この本は内にあることを知らなければならない。そうして真意は巡って、関(夾脊)を通って(頭)頂へと至る。また深い瞑想状態(隠隠)にあってまさに知ることができるのは「神」や「意」のことである。この「神」が還るのはつまりは「意」が巡らせるのである。伍(守陽)真人は「二つを共に知るのは微細な意にある」としているが、これはおそらくここに述べたようなことであろう。わたしは「神」と「意」がどうして「神」から「意」が派生するとされるのか分からない。それに「神」と「意」がどうして内と外であり、これらが応じ合うことでひとつになるのかも分からない。そうであるからわたしは本当にこうしたことについて知らないということが分かっているに過ぎない。わたしはただ自分の「意」を伏して、内を調えるのみである。ここでの「意」は分けようにも分けることができない。ただ覚守するだけである。そうしていれば内(神)は整い、外(意)は自在な境地へと至る。どうしてこれらが二つであると知ることができるのか。そうした微妙な「意」をわたしは知ってはいない。これは玄の玄たるところであり、仙人の乗る筏を浮辺て天の川へ遊び、朝の東天に日が昇るように気は上昇しその後に黄庭(下丹田)に鎮まる。機は伸びやかで、神は滞りなく流れている。快活たること限りなく、日々に気は循環して毎朝、全身に滞りなく流れて、三宮(上、中、下の丹田)に注がれる。そうして得られた薬は、そのままで用いられないということはない。こうして真気はますます盛んになる。なんとしたことであろうか世の人は河車の奥義を知ることがなく、ただ気を巡らせていて心を疲れさせているだけである。真伝の詳細を得ることなく、ただ遊びまわって迷うばかりである。

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