道竅談 李涵虚(265)第三十章 河車の奥義(解説5)

 道竅談 李涵虚(265)第三十章 河車の奥義(解説5)

「意」を鎮めるには目を閉じた方が良いのか、少し開いた方(半眼)が良いのか。日本の禅宗では半眼でなければならないとするが、『天台小止観』では軽く瞑目するとある。静坐でも同様であり、幻影が頻繁に出て来るようであれば半眼をとると教える。私見によれば幻影が出てしまうのは「意」が自由に動き、暴走を始めるためと考える。つまり「半眼」でなければならないとするのは幻影が出ないようにするためと考えられるが、それは自由な「意」の働きを制限することになる。僧堂などで集団で生活する場合に幻影が出るようになると周囲の人にも影響が及ぶことになり生活が崩壊しかねない。しかし真の心身の自由を求めるのであれば、軽く瞑目する静坐でなければなるまい。

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