道竅談 李涵虚(266)第三十一章 真心を論ずる(本文 上)

 道竅談 李涵虚(266)第三十一章 真心を論ずる(本文 上)

金丹の道は、真神、真気、真精を貴いものとして、それにより「造化(心身の変容により新たな心身が作られる)」を行うのであるが、真心が用いられることが無ければ、また真精、真気、真神も得られることはない。真心とは(淫欲などの)識念が生じていな状態での交わりであり、陰気に染まっていない思いである。修身の妙道とは、すべからく静の下に始めるところにある。修行者の煉己がいまだ純化されていない時でも、大体においてこの功を行うと、うまく行くものである。これは兵法で、相手が準備をしていない内に不意に攻撃を仕掛けるといったようなもので、心がたまたま清らかになって欲念が起こっていない時に、この功を行うのであり、そうすればすぐに効果を得ることができる。

自らは三宝(精、気、神)を閉じて(外に漏らすことなく)、凝神、調息をする。こうなると内は内に留まって外からの影響を受けることはない。この時に欲念はいまだ発せられておらず、ここで功を行えば即効が得られる。識神がいまだ用いられないのに乗じて、そこに真神を見るのである。濁気がいまだ働かないのに乗じて、その真気を養うのである。淫精のいまだ働かないのに乗じてその真精(の働くの)を待つのである。

一心に専念して、致虚を極め、守静を篤くする。そうして(先天の世界に通じる入口である)玄関のあるのを知る。ここに性命双修の第一義がある。真心の用は、どうして妙でないことがあろうか。物事の交わりがあれば、それに反応するであろう。談笑して飲食をする時、思いは心機が動くのに触れて動くが、それに従って思いを制しようとしても、内心は浮動して、雑念が生じてしまう。自分でこれを止めようと思って、止めることはできれば良いが、止めようとしてもすぐに雑念は生じてしまうものである。やってもやっても生じて止まることはない。止めようとすればする程、雑念は生じてしまう。強敵に出会った時には、目を閉じて天に任せて人と戦う。天に通じる誠がなく戦えば、ただ荒廃をもたらすのみとなろう。同様に雑念と戦っても心は廃れてしまう。

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