道竅談 李涵虚(267)第三十一章 真心を論ずる(本文 下)

 道竅談 李涵虚(267)第三十一章 真心を論ずる(本文 下)

どうするべきか。大体において初心の修行者は、俗縁の深きから逃れることができない。が、どのようなことに出会っても感情にとらわれないようにする。虚空を(そのままに悟る)頓悟することはすばらしい。(本来の自分を知る)了性を(ゆっくりと悟る)漸悟することもすばらしくないことはない。ただ修行者はそうしたことにこだわることなく、真心をして修行を始めることである。そうすれば煉己が充分でないとしても、静を求めて修行に入ることができる。どのような時でも静を忘れてはならない。そこに真心は、あるいは昼に生じることがあり、夜に生じることもある。あるいは時には失われしまうこともあるかもしれないが、そうしたら自分でそれを知って静を取り戻す。これは、つまりはこうしたとになろう。静を作るようであっても、それは作るのではないのである。

これには初心の者に適した簡単な方法があり、古い丹経にも出ている。それはちょっとした機会をとらえて静を得ていくのであり、そうして常に真(心)を守るようにするのである。日々その真(心)を抱くのである。時に日に、その真(心)を見ないことはない。それは(時々の)漸から常に及ぶことになる。長く純静を保っていれば、煉己の功は同時に煉られる。これより偉大なことはない。そうであれば心がたまたま清明である時、まさにこれは一門の中核となるの修行をするべき時なのである。良き時の流れ、良き環境に出会った時、願わくば一刻が千金に値するこうした時を軽んじないようにしてもらいたい。

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