道竅談 李涵虚(268)第三十一章 真心を論ずる(解説1)

 道竅談 李涵虚(268)第三十一章 真心を論ずる(解説1)

ここで述べられている真心は静坐をする上でひじょうに重要なことである。真心で表されるのは一種の「至高体験」で、あるいはこれは「宗教体験」「神秘体験」とすることもできるであろう。こうした日常とは異なる調和感、親和感のようなものが得られたら、ここに真心が開いたと考える。また静坐はこうした感覚を頼りに進めていく。興味深いことにこうした感覚は瞑想のテクニックを捨てた時に得られるもののようなのである。そうであるから瞑想「法」は必要ないともいわれるし、前段として瞑想「法」があったから真心が開かれたと解する人も居る。

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