道竅談 李涵虚(271)第三十一章 真心を論ずる(解説4) リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 2月 26, 2021 道竅談 李涵虚(271)第三十一章 真心を論ずる(解説4)梵我一如というが「梵=大宇宙」と「我=小宇宙」が一つになった時とは、「梵」と「我」の区別が消えた時である。これを「虚空」を悟ることといている。また「了性」では「我」の真我(アートマン)である「性」を見出すのであるが、真我は通常の「我」を超えた境地である。「了性」にあっても大いなる自然と一体となったことが感得される。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(5) 8月 08, 2021 静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(5) 八卦掌居敬窮理学派における静坐には「敬字訣」があるのみである。「敬(つつしみ)」は中国語で「チン」であり、これが「静(チン)」に通じるので、心に「敬」字を思えば自ずから気持ちが静まるとされている。ただ日本人はこうした音のイメージの共有はなかなかできないので、それ程有効ではないであろう。静坐はただ座っていれば良い。それにより「性」は自ずから開かれる。ただ座っているといろいろな感覚が出てくる。静坐を続けることはその変化を楽しめるようになると苦痛ではなくなる。しかし、それまではなかなか興味が持てないかもしれない。その期間を越えるための方法として敬字訣などいろいろな瞑想技法があると静坐では考えている。 続きを読む
静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(4) 8月 07, 2021 静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(4) 中国の儒教の文献を見ると静坐について書いたものが実に多いが、そのやり方についてはほとんど触れることがない。それは儒教で「禅宗は座り方の練習をしている」と批判することとも関係している。確かに結跏趺坐は容易にできるものではない。日本の禅の修行の第一は坐法の痛みに耐えることにあるともいう。儒教はそうではなく精神的なものを涵養して人が本来持っている「性」の働きを開くことを目的としているのであり、坐法などの瞑想テクニックにこだわるべきではないと主張している。しかし、静坐をするには何らかの方法がなければやり難い。それを説明すると坐禅と大差の無いものになってしまう。こうした矛盾があるので儒教関係の文献ではほとんど坐法の説明がないのである。日本でも近世あたりには朱子学や陽明学を研究する人たちの間では静坐がよく実践されていた。ただ日本における儒教の伝来は書物を通してであるために静坐についてもそれぞれが考えて行っていたようである。近世の儒家の伝統は近代になって一旦途絶えて、アカデミズムの中で復活することになる。そこではすでに静坐の実践はまったく顧みられなくなってしまう。 続きを読む
三車秘旨(94)道情詩詞 8月 03, 2021 三車秘旨(94)道情詩詞 「呂祖題詞」 大江の初祖これは純陽 九転の丹は道を成し気盛んたり 今日の伝心に特別な言葉はなし 君に願わくはそれぞれが悟りの舟に乗らんことを (解説) 大江とは揚子江のことであることは前回に触れたが、ここでは神仙道の教えの流れを象徴している。その大本が呂純陽であるとするわけである。呂純陽は8世紀ころの人であるから歴史的には神仙道の祖とすることはできないが、呂は日本でいうなら弘法大師か聖徳太子のような存在で「仙人といえば呂純陽」と思う人が多い。また呂は現在でもいろいろなところに出現して教えを授けているとされている。確かに教えの奥義を悟るには霊的なひらめきのようなものが必要であり、それを呂純陽からの霊的な教えとすることもできる。 続きを読む
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