道竅談 李涵虚(252)第二十九章 「採」と「煉」の妙用(本文)

 道竅談 李涵虚(252)第二十九章 「採」と「煉」の妙用(本文)

「採」と「煉」についてであるが「採」とは彼の家(腎)の陽鉛をして我が家(下丹田)の子珠の気を煉ることである。陽鉛とは地魄のことであり、これは外辺の至陰の中に蔵される(腎・坎の陰「陽」陰)。そうであるから地魄という。煉己の時にこれを得る。そうであるので、これをして我の汞性を制するのである。そうであるからこれを「砂(丹砂の砂)」とする。『悟真篇』には「専ら地魄をして砂汞をとらえるには、ただ修行者は採と煉を行わなければならない。ただそれだけである」とする。

「採」とはどういったことであろうか。「採」とは採ることのない採である。何を「煉」というか。煉とは煉ることのない煉なのである。「採らざる採」とは何であろうか。これは「龍閑虎静(龍は心、虎は腎)」となることである。「雌を守って雄ならざる」ことである。子(下丹田)の月を建てれば(玉液還丹)、気は昇り始める。神は気の昇るに従って逆に鼎の中に入ることになる。つまりこうして(鼎の中に神を)引き入れるのである。これがつまりは「採らざるの採」となる。「煉らざるの煉」とは何であろうか。「彼(腎の一陽)」は「我」の家(下丹田)に居る。つまり薬とは火であり、共に融合すること久しくして、その陰が自ずから(陽に)化する。、つまりこうして陽は長ずることになる。(陽を)炉の中に積むと、自然に(動きを始めてさらに陰を陽へと化する)運化をする。そうであるから「煉らざるの煉」というのである。ただこの間は、特に凝神を続けなければならない。こうすることでこれを「採」ることが可能となる。調息をしてこれを守ることで、これを「煉」ることが可能となる。こうなると精はことごとく化して気となり、腹部が充実する。このようにして内丹が結ばれる。

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