三車秘旨(65)道情詩詞

 三車秘旨(65)道情詩詞

(本文)

「有をして無を生むとは何か」

玉液を生じて丹を成す時

坤家の真静へと投げ入れる

たちまちに一陽の来るのが見られよう

丹をなすものが我に還ること

疑うなかれ

(解説)

前回に述べたが、玉液とは心の一陰のことである。「坤家の真静」とは「坤」も「静」も陰であるから純陰のことであり、これは心の一陰のこととなる。これが開かれるのには「静」を得ていなければならない。「静」が無ければたとえ腎の一陽が開かれてもそれが心と交わることがないのである。「静」がなければ腎の一陽は後天の精へと化してしまう。よく「房中術」をいう人がいるが、房中術では後天の精が使われる。これがまったく静坐の流れとは異なるものであることはここに示されている通りである。房中術を語った時点でその人物は正しい道を得ていないとして構わない。


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