三車秘旨(92)道情詩詞

 三車秘旨(92)道情詩詞

「満江紅 第三体」

文章の技巧を凝らすも

すべては六経の残り滓

節をつけ調子よく朗唱するも

何ら真のことのあることや


うまく立ち回りたる醜態は真に笑うべき

名をあげようと思うも

焦ってどうなることもなく

詩文に頼って高官となり

家名をあげんとするが学びの始め


先ずは失い

機を得て手にす

貪りて得たるはわずかなるを見て

戦に民は軽々と捨てらる

清廉な官僚や道理を明らかにすることに何の得があろう


どうして金なきに世を恨むるや

我の山に隠棲するを見よ

喧騒を離れて乱れるを治めん


(解説)

六経とは一般には五経とされるもので易経、書経、詩経、礼記、春秋に楽経を加えたものである(ちなみに楽経は失われてしまっているので四書五経のようにいわれている)。文章として真に価値があるのは六経であり、その他のものは雑文に過ぎないとする。儒教では詩経などを朗唱することがよく行われており、それによって精神が陶冶されると考えられていた。儒教の修行法として古代から静坐(坐忘)などがあったとされることもあるが、大体は詩を朗唱したり、精神を統一して易を出したり、礼法をして体の正しい使い方を学んだりしていたようである。これが後には静坐を行うようになる。ただ静坐は古くは神仙道で実践されていたものであり、仏教に取り入れられて禅宗を生み、儒教では朱子学や陽明学を生むことになった。ただ仏教でも儒教でも、大体において「ただ座っている」ことが中心となることは共通している。


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