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静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(5)

  静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(5) 八卦掌居敬窮理学派における静坐には「敬字訣」があるのみである。「敬(つつしみ)」は中国語で「チン」であり、これが「静(チン)」に通じるので、心に「敬」字を思えば自ずから気持ちが静まるとされている。ただ日本人はこうした音のイメージの共有はなかなかできないので、それ程有効ではないであろう。静坐はただ座っていれば良い。それにより「性」は自ずから開かれる。ただ座っているといろいろな感覚が出てくる。静坐を続けることはその変化を楽しめるようになると苦痛ではなくなる。しかし、それまではなかなか興味が持てないかもしれない。その期間を越えるための方法として敬字訣などいろいろな瞑想技法があると静坐では考えている。

静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(4)

  静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(4) 中国の儒教の文献を見ると静坐について書いたものが実に多いが、そのやり方についてはほとんど触れることがない。それは儒教で「禅宗は座り方の練習をしている」と批判することとも関係している。確かに結跏趺坐は容易にできるものではない。日本の禅の修行の第一は坐法の痛みに耐えることにあるともいう。儒教はそうではなく精神的なものを涵養して人が本来持っている「性」の働きを開くことを目的としているのであり、坐法などの瞑想テクニックにこだわるべきではないと主張している。しかし、静坐をするには何らかの方法がなければやり難い。それを説明すると坐禅と大差の無いものになってしまう。こうした矛盾があるので儒教関係の文献ではほとんど坐法の説明がないのである。日本でも近世あたりには朱子学や陽明学を研究する人たちの間では静坐がよく実践されていた。ただ日本における儒教の伝来は書物を通してであるために静坐についてもそれぞれが考えて行っていたようである。近世の儒家の伝統は近代になって一旦途絶えて、アカデミズムの中で復活することになる。そこではすでに静坐の実践はまったく顧みられなくなってしまう。

静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(3)

  静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(3) 静坐において涵養される「内面」はどのような権力においても侵害されることのないものである。もし侵害を行おうとするなら収容所のようなところに閉じ込めて心身へ大きなストレスを与えて破壊でもしなければ「内面」への侵害をすることはできないであろう。しかし一方で「自由」に考えていると思っている多くの人もプロパガンダなどにより内的な侵害を受けていることが多々ある。そうしたことから逃れるためにも日頃から静坐をして自己の内面を知っておく必要がある。外と内の意識のバランスを知ることで多くのとらわれから脱することができるようになる。

静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(2)

  静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(2) ひとは意識の持ち方ひとつで社会の秩序を簡単にひっくり返すことができる。厳正なる秩序に中には、必ずアナーキーへの衝動が潜んでいる。それを老子はするどく指摘する。そしてそれを知り得るのは深い瞑想における「体験」であると教えている。およそ中国では日本よりも静坐が好まれる傾向がある。私が師範大に留学した時も、不動産屋の三十代くらいの男性が「静坐をしたい」と言っていた。そして公園のどこで静坐をやっている等よく知っていた。たとえば大安森林公園では観音像のまわりに小さな椅子を置いて座っている人たちがいるなどである。その目的とすることは「心身の養生」にあるようであるが、仏像などの近くで行うことで「魔」が入らないということもあるようであった。

静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(1)

  静坐雑話「道徳武芸研究」ブログ統合に向けて(1) これまでで西派のテキストの翻訳と解説を終えることができた。使ったのは台湾の自由出版から出ている道蔵精華「太上十三経注釈 道竅談三車秘旨 合刊」である。西派はそれまでの神仙道の秘伝、秘訣を集めて体系化しようとしている。その意味ではパズルを解くような面白さがあるが、実際の静坐をしよとするのにはあまりに煩雑であるともいえる部分もあったことであろう。来週よりはこの内丹のブログを外丹のブログに統合して「道徳武芸研究」と題しようと考えている。「道徳武芸」の「道徳」とは『老子』のことでそれをベースにしようと考えている。およそ『老子』と『孫子』は数ある中国古典の中でも卓越した価値があると考えている。よく『老子』は『莊子』と同列にして扱われるが、『莊子』が隠逸の傾向が強いのに対して、『老子』は市井にあって超俗をめざそうとする指向性が高いように思われる。否「超俗」というよりアナーキーといった方が良いかもしれない。

三車秘旨(94)道情詩詞

  三車秘旨(94)道情詩詞 「呂祖題詞」 大江の初祖これは純陽 九転の丹は道を成し気盛んたり 今日の伝心に特別な言葉はなし 君に願わくはそれぞれが悟りの舟に乗らんことを (解説) 大江とは揚子江のことであることは前回に触れたが、ここでは神仙道の教えの流れを象徴している。その大本が呂純陽であるとするわけである。呂純陽は8世紀ころの人であるから歴史的には神仙道の祖とすることはできないが、呂は日本でいうなら弘法大師か聖徳太子のような存在で「仙人といえば呂純陽」と思う人が多い。また呂は現在でもいろいろなところに出現して教えを授けているとされている。確かに教えの奥義を悟るには霊的なひらめきのようなものが必要であり、それを呂純陽からの霊的な教えとすることもできる。

三車秘旨(93)道情詩詞

  三車秘旨(93)道情詩詞 「大江西派九字」 西道遥(西の道遥かにして) 大江東(大江の東) 海天空(海と天は空たり) (解説) 「西に道は遥かにして」「大江(揚子江)の東」とは達磨が中国へ来たことを象徴する。つまり西派は達磨の真伝であるとの意味がある。それは「自然」ということであり、海や天の「自然」はまた「空」であることを悟ることにあるとする。神仙道は「自然」を説くのみでそれが「空」であることまでの言及はない。しかし西派によれば「空」への悟りを得られるとする。本来禅宗は神仙道の影響を受けており、それを仏教の神仙道派とすることもできるし、神仙道の仏教派と位置付けることも可能である。北派も仏教の影響が強いが西派も同様で、また西派には儒教をも取り込んで、儒教、仏教、道教が「合一」しているとするのである。