投稿

道竅談 李涵虚(214)第二十四章 「中」の意味(解説4)

  道竅談 李涵虚(214)第二十四章 「中」の意味(解説4) 老子が「無欲」であればよく観ることができるとする「妙」と何であろうか。それは予想を超えたものである。武術でも等しく「無欲」で、ただ套路を練っていれば「妙」を観ることができる。禅で「只管打座」を教えるがこれも、ただ座っているだけ、ということであり「無欲」であることを求めている。また「悟りを求めて座るわけではない」とする禅の教えも同様である。ただ、これは仏教の本来の悟りを求めての瞑想修行とは異なるものでもある。

道竅談 李涵虚(213)第二十四章 「中」の意味(解説3)

  道竅談 李涵虚(213)第二十四章 「中」の意味(解説3) 引用されている老子の「無欲でその妙を観る」は静坐の極意である。一方で「有欲でその竅を観る」とも老子は述べている。ここでの「竅」は「玄関」であるとしている。霊的な世界を観る入口ということである。特異なビジョンを観るのはそこに「観たい」という意識があるからであると老子は教えている。あらかじめ観たいと思ったことを観ているといっているわけである。禅ではあらゆるビジョンを棄てることを求める。それは「竅」を観ることにとらわれると「妙」を知ることができなくなるからである。

道竅談 李涵虚(212)第二十四章 「中」の意味(解説2)

  道竅談 李涵虚(212)第二十四章 「中」の意味(解説2) 先に「廻光返照」は小周天のことと解されることについて触れた。また「廻光返照」は自分の内面を見つめることであることも述べた。「廻」には回るという意味もあるので、これが龍門派の唱えるイメージで督脈、任脈に「気」を巡らせる「小周天」とされるのであるが、「廻」は返すという意味であり、「返照」と同じく自分の内面を見つめるという意味とするのが妥当である。また「周天」は天の星々の運行のことで、「大周天」が大宇宙、「小周天」が小宇宙(人体)となる。小周天を修するとは本来、大宇宙と一体である小宇宙としての人体をあるべき状態に戻すことにある。

道竅談 李涵虚(211)第二十四章 「中」の意味(解説1)

  道竅談 李涵虚(211)第二十四章 「中」の意味(解説1) 初心者への瞑想として三穴への廻光返照を教えている。「廻光返照」は一般的には小周天をいうものとされているが、その根本にある「内面を見つめる」ことを教えるものである。熱い液体のようなもの(陽気)の流れを感じるとイメージするのは内面に意識を向けるための方便に過ぎない。また「三穴」は黄庭、気海、丹田としている。これらはほぼ臍のあたりにあるとされるもので、気海を丹田とすることもあるし、黄庭も丹田と説かれる場合がある。つまり黄庭も気海も丹田も等しく下丹田とすることもできるのである。つまり「三穴」は下丹田のことになるのであるが、これをわざわざ「三穴」とするのは黄庭が「神」を、気海が「気」を、丹田が「精」を象徴しているからである。つまり廻光返照は神、気、精を鎮めるものでなければならないということである。

道竅談 李涵虚(210)第二十四章 「中」の意味(本文下)

  道竅談 李涵虚(210)第二十四章 「中」の意味(本文下) ただ今ここでは初心の修行者がやるべきことを述べてみよう。初心の修行者は姿勢をしっかりと整えて睡魔と闘わなければならない。軽く目を閉じてあらゆる妄想から脱しなければならない。そして「三穴」に廻光返照をする。「三穴」とは黄庭、気海、丹田である。「三穴」に返照するといっても「三穴」に意識を集中するのではない。殊更「三穴」を意識することのないようにする。廻光返照をした後には心が安定する。息は自然のままでこれも特に意識することはない。ある意味においてまったくもって兆しもないのであるが、それはまさに「無欲でその妙を観る」(『老子』第一章)とされる、まさにその時なのである。「致虚守静」の時、「神凝気合」の時、不意に一なる境地がたちまちに中より出現する。その大きいことは限り無く、その小さいことも限りが無い。つまりこれは「玄関」の現象なのである。これは『老子』(第一章)にあるまさに「有欲でその竅を観る」という、その時なのである。 また(第二十二章で触れた)『周易参同契』の「上を閉じることを『有』と称する。下を閉じることを『無』と称する」を再びここで考えるとすれば、そこには「上」と「下」の二字のあることが分かる。これは「中」を忌している。そこに陰陽が往来し、そこでは坎離が昇降している。つまり「上」と「下」を合わせて「中」となるというわけである。そうであるから「上」は「下」を閉じることで、密やかなるものを封じることになる。太虚の中、そこで元気はひとりで働いている。そうであるからこれを「無」という。これはまた「妙」を観るということでもある。「下」は「上」を閉じることで、いまだ見えざるものを隠し持っている。そうであるから暗闇の中に「精」があるのであり、その中には「信(まこと)」がある。このために「有」というわけである。これはまた「竅」を観るということでもある。「上閉」「下閉」はすべて「玄牝」の中に帰することになる。「無欲」「有欲」はことごとく「玄微」において存している。そうであるから「玄関の一竅」と称されるのであり、「有無の妙竅」と称するのである。「上下釜」というのである。「陰陽の鼎」「神気穴」とするのである。これらはすべて以上に述べているようなことをいっているわけで、つまりはすべてが「一」なる「中」であるということにな...

道竅談 李涵虚(209)第二十四章 「中」の意味(解説6)

  道竅談 李涵虚(209)第二十四章 「中」の意味(解説6) 文始天尊は老子(太上、太上老君)は『老子』の中でどこ章が最も重要かと問うのであるが、老子は直接それには答えないで「深根固蔕」と「守中抱一」が重要であると答える。これはテキストの文章の中には重要とすべきことは無いということでもある。「深根固蔕」 の「蔕は「根」のことでこれは「根を固める」という意味である。「守中抱一」は「中を守って、一を抱く」ということで、これは「深根固蔕」と同じである。「中」「一」と一体となることがすなわち「根=蔕」を固めることになる。

道竅談 李涵虚(208)第二十四章 「中」の意味(解説5)

  道竅談 李涵虚(208)第二十四章 「中」の意味(解説5) 「脱胎神化」を得るためには「中」であることが必要であるとある。「脱胎」とはこれまでの自己ではなく本来の自己を見出すことをいう。それがつまりは「神化」である。「精」は肉体のエネルギーであり、これはなかなか自由にはならない。「気」は感情のエネルギーであるが、これもなかなかままならない。しかし「神」という思考のエネルギーだけは本来は何の妨げもなく自由であることが可能なのであるが、かえって多くの人は自己の思考を自分で制限してしまう。それが本来は自由であることを見出すのが「神化」の境地である。