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道竅談 李涵虚(184)第二十二章 二つの孔穴(両孔穴)の法(解説2)

道竅談 李涵虚(184)第二十二章 二つの孔穴(両孔穴)の法(解説2) 『周易参同契』では「上」を「閉じる」、「下」を「閉じる」とある。これは精神の安定と肉体の安定をいう。そして「下」を「閉じる」には「無」への悟りがなければならず、それにより「神」が安定する。「無」とは「無為自然」のことである。「金気」とは「金」は「肺」を意味するので呼吸のことで、肉体が自然の動きをするようになると、心である「神」が安定し、呼吸も整うことになる。これを真息という。「神」が安定するのが「土」で、五行説では「土は金を生む」ので「金」で象徴される呼吸が整うことになる。

道竅談 李涵虚(183)第二十二章 二つの孔穴(両孔穴)の法(解説1)

  道竅談 李涵虚(183)第二十二章 二つの孔穴(両孔穴)の法(解説1) 「両孔穴」とは、例えば「上」と「下」であれば、それらをむすぶ「穴」があるとして、その「穴」は「上」から「下」へと通じる「孔」と同時に「下」から「上」へと通じる「孔」があるということである。こうした例として「 師の伝える口から口」が挙げられているが、これは「師の口」は指導を意味するもので、もうひとつの「口」は弟子の理解をいっている。教えというものはそれが発せられただけでは終わらない。その教えを理解しようと努める弟子の居ることで初めて伝授は完成するわけである。「竅から竅へ」は先天から後天へ通じる「竅」と、後天から先天へと通じる「竅」があってこの二つの方向の修行つまり「性」と「命」の修行なければ真の意味での修行の成就を期することはできないのである。

道竅談 李涵虚(182)第二十二章 二つの孔穴(両孔穴)の法(本文)

  道竅談 李涵虚(182)第二十二章 二つの孔穴(両孔穴)の法(本文) 丹家には一つの穴がある。一つの穴には二つの孔がある。その中は空であり、その両端に竅(あな)がある。そうであるからこれを「両孔穴」という。師の伝える口から口、竅から竅へにおいてもこうしたことが存している。任脈と督脈の交わるところ、陰陽の交わるところ、烏と兎の行き来をするところ、一穴両孔とは、こうした中にある作為の法(則)のことなのである。この法は最も玄である上にも玄である。『周易参同契』には「上を閉じることを『有』と称する。下を閉じることを『無』と称する。『無』は上に奉じられ、上には神徳が「有」る。この両穴の法では金気も共に留まっている」とある。「金気も共に留まっている」とはすべてが含まれていることを意味している。「上」「下」は天地である。「閉」は深いところでひとつになるということである。「有」「無」は妙竅のことである。「称」とはそういうということである。一上、一下にはすべからくこの穴の間にある。それは有るようであり、無いようでもある。あらゆるものはすべてこの穴の内にあるのである。それはまさに致虚守静、天地冥合の時ともいえよう。「有」をもってその妙を見るならば、妙はそこに「有」る。それは名づけることのできないものであるので、ただ「有」るということしかできない。いわれるところの「窈冥有精」にあっては、その中に「信」がある。「無」をもってその竅を見れば虚無の竅ということになる。これを説明しよとしても説明はできない。そうであるから「無」というのである。いわゆる「その中に物があり、無物に帰する」ということで、老子は「無状の状」「無象の象」と述べている。「これを迎えてもその首を見ることはできず、これに随ってもその後ろを見ることはできない」とある。丹法いおいては「無」を上とする。 〈参考『老子』第二十一章 孔徳はこれ容(い)れる。これ道、これ従う、(略)恍たり惚たり。その中に物あり。窈(よう)たり冥たり。その中に精あり。その精はなはだ真なり。その中に信(まこと)あり。 第十四章 (略)これを無状の状、無物の象という。これを恍惚という。これを迎えて首を見ず、これに随いてもその後を見ず。〉

道竅談 李涵虚(181)第二十一章 再び玄関について(解説6)

  道竅談 李涵虚(181)第二十一章 再び玄関について(解説6) 「玄関」とは一定の瞑想の深い段階に入るということであるが、それが正しいものであるのか否かを客観的に判断することはできない。そうした危うさが瞑想の修行にはある。これは武術でも同様であろう。一定の技術に習熟することがかえって心身の不安定をもたらすこともある。おそらく8割の確信と2割の疑いをもって修行というものは進められるべきではなかろうか。

道竅談 李涵虚(180)第二十一章 再び玄関について(解説5)

  道竅談 李涵虚(180)第二十一章 再び玄関について(解説5) 「死」の苦しみは変化への恐れであるとここでは教えている。これは仏教と同じである。自分が亡くなるのは今とは違う世界に入ることへの恐怖であろう。他人が亡くなって悲しいのも何時もの状態が変わってしまうことから来る違和感にある。そうであるからしばらくして新しい生活に慣れてしまうと悲しみは薄れて行く。あらゆるものは変化をすると思うことでそうした苦しみを脱することができるわけである。

道竅談 李涵虚(179)第二十一章 再び玄関について(解説4)

  道竅談 李涵虚(179)第二十一章 再び玄関について(解説4) 心が安定すると(死心)、生死のとらわれからも脱することができるようになる。それが「こうした境地は鬼神もはかり知ることができない」とされるものである。「鬼神」は祖先神をいうもので広く死者の世界を意味している。この一文には「これを離れては無常のとらわれから免れることはできない」とする注が付されているが、ここでの「無常」も死を意味している。およそ人として最もとらわれを持つのは「死」であろう。病気や生活の不満などは時として忘れることもできるが、「死」に関してはそれを気にし始めるとその苦しみは大きなものとなってしまう。

道竅談 李涵虚(178)第二十一章 再び玄関について(解説3)

  道竅談 李涵虚(178)第二十一章 再び玄関について(解説3) ここでは最初は「神と気はひとつになっても、これが安定することがない」とある。修行をしていても心身が安定する感じが得られることもあれば、そうではないこともある。誰でも時に「至高体験」と称されるような特殊な心身の状態を持つことはあるであろうが、それはしばらくすると忘れてしまう。修行においては、そうしたことにいちいち気を取られることなく、日々行を重ねていくことが大切である。そうなると「死心」が得られる。この場合の「死」とは「活動をしなくなる」という意味であり、仏教でいうところの止観の「止」と同じである。これは神仙道では「とらわれの無い心」とすることができるであろう。以下は「止」による正しい認識の得られる「観」について語られている。

道竅談 李涵虚(177)第二十一章 再び玄関について(解説2)

  道竅談 李涵虚(177)第二十一章 再び玄関について(解説2) 最後に「玄関は心ではない。腎でもない」「私の言っている玄関は黄庭、気穴、丹田でない」とするが、何かを説明しようとすれば言葉を使って限定的な表現をしないわけにはいかない。そこに誤解が生まれることになる。新たな心身の境地の開かれることを「霊光」を見るなどと言うと「霊光」という言葉のみが独り歩きをして、幻影を見なければならないような誤解が生じてしまう。そうであるからどうしても「ただ入門の儀式を済ませた者のみに教えを述べた」ということになってしまうのである。

道竅談 李涵虚(176)第二十一章 再び玄関について(解説1)

  道竅談 李涵虚(176)第二十一章 再び玄関について(解説1) 「玄関」とは先天と後天の交わるところである。そうしたところに入るには後天の精、気、神が調和した状態になければならない。これは簡単に言うなら一定の瞑想状態に入ることである。「玄関には神と気の交わる霊光が存している」とあるが、神は精神で気は肉体のことで、これらが安定した状態にあれば意識も安定してある種、特別な境地に入ることができるということになる。これはまた荘子のいう「虚室生白」であり、神仙道では「陽光三現」とも称される。神仙道では「霊光」のヴィジョンを見ること自体を重視することはない。心身の開かれた感覚のことを「霊光」に象徴させているわけである。

道竅談 李涵虚(175)第二十一章 再び玄関について(本文)

  道竅談 李涵虚(175)第二十一章 再び玄関について(本文) 玄関には神と気の交わる霊光が存している。始めて玄関を見た時には霊光は点ったり消えたりして定まるところがない。初めて玄関に入った時にはぼんやりとした感じで依るところがところが無く、神と気はひとつになっても、これが安定することがないのである。しかし神と気の交わりが熟してくると不動の心(死心)から離れることは無くなり、ここにおいて始めて玄関の中では他人も自分もその存在を共に忘れてしまうものであることを知るのである。こうした境地は鬼神もはかり知ることができない〈これを離れては無常のとらわれから免れることはできない〉。玄関の中は混沌としており、常に変化をしているので、玄関の中は玄妙であり、あらゆる変化が生じて、それぞれの名を述べることはできないほどであるが、これを不思議とするには足らない。それぞれの人によって受け取り方は違っているに過ぎない。そうであるからそれぞれに名が付されるのであり、その用いられ方によって、いろいろな呼ばれ方もされる。そうであるから古い時代の神仙道の師たちはその名を秘して語ることがなかった。ただ入門の儀式を済ませた者のみに教えを述べたのであるが、それは誤りを諭すもので「玄関は心ではない。腎でもない」ということに過ぎない。これは、ここで私の言っている玄関は黄庭、気穴、丹田でないというのと同じである。ここに再び同じことを述べておくが、これを知る者は秘しておかなければならない。