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道竅談 李涵虚(214)第二十四章 「中」の意味(解説4)

  道竅談 李涵虚(214)第二十四章 「中」の意味(解説4) 老子が「無欲」であればよく観ることができるとする「妙」と何であろうか。それは予想を超えたものである。武術でも等しく「無欲」で、ただ套路を練っていれば「妙」を観ることができる。禅で「只管打座」を教えるがこれも、ただ座っているだけ、ということであり「無欲」であることを求めている。また「悟りを求めて座るわけではない」とする禅の教えも同様である。ただ、これは仏教の本来の悟りを求めての瞑想修行とは異なるものでもある。

道竅談 李涵虚(213)第二十四章 「中」の意味(解説3)

  道竅談 李涵虚(213)第二十四章 「中」の意味(解説3) 引用されている老子の「無欲でその妙を観る」は静坐の極意である。一方で「有欲でその竅を観る」とも老子は述べている。ここでの「竅」は「玄関」であるとしている。霊的な世界を観る入口ということである。特異なビジョンを観るのはそこに「観たい」という意識があるからであると老子は教えている。あらかじめ観たいと思ったことを観ているといっているわけである。禅ではあらゆるビジョンを棄てることを求める。それは「竅」を観ることにとらわれると「妙」を知ることができなくなるからである。

道竅談 李涵虚(212)第二十四章 「中」の意味(解説2)

  道竅談 李涵虚(212)第二十四章 「中」の意味(解説2) 先に「廻光返照」は小周天のことと解されることについて触れた。また「廻光返照」は自分の内面を見つめることであることも述べた。「廻」には回るという意味もあるので、これが龍門派の唱えるイメージで督脈、任脈に「気」を巡らせる「小周天」とされるのであるが、「廻」は返すという意味であり、「返照」と同じく自分の内面を見つめるという意味とするのが妥当である。また「周天」は天の星々の運行のことで、「大周天」が大宇宙、「小周天」が小宇宙(人体)となる。小周天を修するとは本来、大宇宙と一体である小宇宙としての人体をあるべき状態に戻すことにある。

道竅談 李涵虚(211)第二十四章 「中」の意味(解説1)

  道竅談 李涵虚(211)第二十四章 「中」の意味(解説1) 初心者への瞑想として三穴への廻光返照を教えている。「廻光返照」は一般的には小周天をいうものとされているが、その根本にある「内面を見つめる」ことを教えるものである。熱い液体のようなもの(陽気)の流れを感じるとイメージするのは内面に意識を向けるための方便に過ぎない。また「三穴」は黄庭、気海、丹田としている。これらはほぼ臍のあたりにあるとされるもので、気海を丹田とすることもあるし、黄庭も丹田と説かれる場合がある。つまり黄庭も気海も丹田も等しく下丹田とすることもできるのである。つまり「三穴」は下丹田のことになるのであるが、これをわざわざ「三穴」とするのは黄庭が「神」を、気海が「気」を、丹田が「精」を象徴しているからである。つまり廻光返照は神、気、精を鎮めるものでなければならないということである。

道竅談 李涵虚(210)第二十四章 「中」の意味(本文下)

  道竅談 李涵虚(210)第二十四章 「中」の意味(本文下) ただ今ここでは初心の修行者がやるべきことを述べてみよう。初心の修行者は姿勢をしっかりと整えて睡魔と闘わなければならない。軽く目を閉じてあらゆる妄想から脱しなければならない。そして「三穴」に廻光返照をする。「三穴」とは黄庭、気海、丹田である。「三穴」に返照するといっても「三穴」に意識を集中するのではない。殊更「三穴」を意識することのないようにする。廻光返照をした後には心が安定する。息は自然のままでこれも特に意識することはない。ある意味においてまったくもって兆しもないのであるが、それはまさに「無欲でその妙を観る」(『老子』第一章)とされる、まさにその時なのである。「致虚守静」の時、「神凝気合」の時、不意に一なる境地がたちまちに中より出現する。その大きいことは限り無く、その小さいことも限りが無い。つまりこれは「玄関」の現象なのである。これは『老子』(第一章)にあるまさに「有欲でその竅を観る」という、その時なのである。 また(第二十二章で触れた)『周易参同契』の「上を閉じることを『有』と称する。下を閉じることを『無』と称する」を再びここで考えるとすれば、そこには「上」と「下」の二字のあることが分かる。これは「中」を忌している。そこに陰陽が往来し、そこでは坎離が昇降している。つまり「上」と「下」を合わせて「中」となるというわけである。そうであるから「上」は「下」を閉じることで、密やかなるものを封じることになる。太虚の中、そこで元気はひとりで働いている。そうであるからこれを「無」という。これはまた「妙」を観るということでもある。「下」は「上」を閉じることで、いまだ見えざるものを隠し持っている。そうであるから暗闇の中に「精」があるのであり、その中には「信(まこと)」がある。このために「有」というわけである。これはまた「竅」を観るということでもある。「上閉」「下閉」はすべて「玄牝」の中に帰することになる。「無欲」「有欲」はことごとく「玄微」において存している。そうであるから「玄関の一竅」と称されるのであり、「有無の妙竅」と称するのである。「上下釜」というのである。「陰陽の鼎」「神気穴」とするのである。これらはすべて以上に述べているようなことをいっているわけで、つまりはすべてが「一」なる「中」であるということになる。 師

道竅談 李涵虚(209)第二十四章 「中」の意味(解説6)

  道竅談 李涵虚(209)第二十四章 「中」の意味(解説6) 文始天尊は老子(太上、太上老君)は『老子』の中でどこ章が最も重要かと問うのであるが、老子は直接それには答えないで「深根固蔕」と「守中抱一」が重要であると答える。これはテキストの文章の中には重要とすべきことは無いということでもある。「深根固蔕」 の「蔕は「根」のことでこれは「根を固める」という意味である。「守中抱一」は「中を守って、一を抱く」ということで、これは「深根固蔕」と同じである。「中」「一」と一体となることがすなわち「根=蔕」を固めることになる。

道竅談 李涵虚(208)第二十四章 「中」の意味(解説5)

  道竅談 李涵虚(208)第二十四章 「中」の意味(解説5) 「脱胎神化」を得るためには「中」であることが必要であるとある。「脱胎」とはこれまでの自己ではなく本来の自己を見出すことをいう。それがつまりは「神化」である。「精」は肉体のエネルギーであり、これはなかなか自由にはならない。「気」は感情のエネルギーであるが、これもなかなかままならない。しかし「神」という思考のエネルギーだけは本来は何の妨げもなく自由であることが可能なのであるが、かえって多くの人は自己の思考を自分で制限してしまう。それが本来は自由であることを見出すのが「神化」の境地である。

道竅談 李涵虚(207)第二十四章 「中」の意味(解説4)

  道竅談 李涵虚(207)第二十四章 「中」の意味(解説4) 「中」を得ることで「養己凝神」や「入室還丹」が達せられるとする。「養己」は「煉己」と同じで本来の「善」なる心を悟ることである「性」を見出しすことをいう。そうなると心が落ち着く(凝神)のである。こうした境地に入ることはまた「入室」とも称される。「還丹」はそれまでの心身の状態が変化をすることで、「善」なる心を見出そうとする過程において精神が安定して心身の状態があるべき状態へと戻るのことといえる。

道竅談 李涵虚(206)第二十四章 「中」の意味(解説3)

  道竅談 李涵虚(206)第二十四章 「中」の意味(解説3) 「塞翁が馬」「没法子(メイファーツー 仕方がない)」は中国の人の人生観をよく表しているのかもしれない。後天(実)の世界ではどうにもならない事があるものである。そうした時は無理に押してもまさにどうにもならない。そこは諦めるしかない。しかし時が移れば、所が変われば状況も同じではなくなる。それまでは先天(虚)の世界に遊んでいれば良い。外を見ないでひたすら自分の内を観るわけである。そのためには静坐や太極拳など内を観るための修練を日々積んでおく必要がある。

道竅談 李涵虚(205)第二十四章 「中」の意味(解説2)

  道竅談 李涵虚(205)第二十四章 「中」の意味(解説2) ここでは「中」は「玄関」であるとする。つまり先天の世界へ通じるものであるということである。先天と後天が適切な均衡を保っているのが「中」となる。なぜ神仙道では先天の世界、「虚」の世界を設定しなければならなかったのか。それは後天の世界への執着から逃れるために他ならない。肉体を持った我々はどうしても後天(物質世界)のくびきから逃れることはできない。しかし非常の時にはそれを脱することもできないことではないのである。中国ではいろいろな理由から住んでいる地域を離れて流浪の旅に出た人がいた。こうした時に後天の世界(世間や家など)から離脱するための「力」の源泉として先天の世界(思考の世界、夢想の世界)があったのである。

道竅談 李涵虚(204)第二十四章 「中」の意味(解説1)

  道竅談 李涵虚(204)第二十四章 「中」の意味(解説1) ここでは「中」の重要性について述べている。「中」は儒教では「中庸」として重視している。インドなどでは「真理」の探究を重んじるが、中国ではあくまでバランスを大切と考える。いくら「正しいこと=真理」と思っても、必ず反対の立場の人は居るもので、そちらから見れば同じことでも「間違ったこと」と捉えられることになる。これは時代によっても同様である。また「真理」の過度の探究は異なる考えを排除することにもなりかねない。歴史から学ぶことを常とする中国ではこうしたバランス感覚が養われた。

道竅談 李涵虚(203)第二十四章 「中」の意味(本文上)

  道竅談 李涵虚(203)第二十四章 「中」の意味(本文上) 『老子』(第五章)には「多言を弄するよりも中を守ることである」とある。これはつまり「中」とは聖賢や仙人、仏となるための「種」であることを述べているのである。「中」でなければ修道を行うところを失うことになる。「中」を失ったところに足を下すと魔坑に陥ることになる。「中」とはどいうことであろうか。それは「玄関」である。『周易参同契』には「運移して中を失わない。浮遊して中を守る」とある。これはすべて「中」のことを述べている。陶(弘景)仙は「中は四方、上下の中である」とする。儒教では「喜怒哀楽の未発」の状態が中であるという。道教では「思いが動かないところが玄牝である」とする。仏教では「善を思うこと無く、悪を思うことも無い。まさにこの時、これこそが本来の面目である」とする。つまりこういったことが真の「中」なのである。「中」の境地の妙は「養己凝神」「入室還丹」にある。そうして「脱胎神化」にいたるのは「中」をおいて他には無い。そうであるから道の修行に初めて入る人は、この「中」を知る必要がある。つまりそれが無ければ先へと進むことはできないからである。かつて文始天尊は太上に道を問うて「修身の至要はどの章にありましょうか」と言ったところ太上は「それは深根固蔕、守中抱一にあるのみである」と教えた。 ただ今ここでは初心の修行者がやるべきことを述べてみよう。初心の修行者は姿勢をしっかりと整えて睡魔と闘わなければならない。軽く目を閉じてあらゆる妄想から脱しなければならない。そして「三穴」に廻光返照をする。「三穴」とは黄庭、気海、丹田である。「三穴」に返照するといっても「三穴」に意識を集中するのではない。殊更「三穴」を意識することのないようにする。廻光返照をした後には心が安定する。息は自然のままでこれも特に意識することはない。ある意味においてまったくもって兆しもないのであるが、それはまさに「無欲でその妙を観る」とされる、まさにその時なのである。「致虚守静」の時、「神凝気合」の時、不意に一なる境地がたちまちに中より出現する。その大きいことは限り無く、その小さいことも限りが無い。つまりこれは「玄関」の現象なのである。これは『老子』(第一章)にあるまさに「有欲でその竅を観る」という、その時なのである。  

道竅談 李涵虚(202)第二十三章 玄牝基根(解説6)

  道竅談 李涵虚(202)第二十三章 玄牝基根(解説6) 「明珠」は変容への覚醒を得ることの象徴である。実際に光の点のビジョンを見ることもあるが、そうしたことにこだわる必要はない。変容への端緒が得られれば良いのである。ここでは「谷神」を先天、「基根」を後天をして、後天において心身が統合されれば、先天においてもそうしたものが生じるというのであるが、なぜ生まれる前である「先天」における心身の統合といったものを設定しているのであろうか。それは後天が示しているのは体の内のことであり、先天は体の外、体をとりまく環境のことうためである。先天の統合とは自分をとりまく精神的な世界と物質的な世界とが適度な均衡状態になることをいう。つまり内的な修行をしていれば生活環境も自ずからあるべき状態になることを教えているわけである。

道竅談 李涵虚(201)第二十三章 玄牝基根(解説5)

  道竅談 李涵虚(201)第二十三章 玄牝基根(解説5) この章では「谷神」を「至虚、至霊の汞性」であるとしており、また「真精」は「至清であり至嫩(どん)の鉛情である」とする。「嫩」とは若さや柔らかさを意味している。これは「精」が生命力と関係しているためである。つまり谷神は「汞」であり「性」であって、真精は「鉛」であり「情」であるということになる。「汞」と「鉛」は「腎」と「心」であり、「汞=腎 陰陽陰」の一陽が真神、「鉛=心 陽陰陽」の一陰が真精となる。つまり谷神は「心」に関係するものであり、そこにおいて「至虚」「至霊」が開かれることで先天の気が本来あるべき状態となるのである。

道竅談 李涵虚(200)第二十三章 玄牝基根(解説4)

  道竅談 李涵虚(200)第二十三章 玄牝基根(解説4) 「 真精がすでに黄金室に返っていれば、一粒の明珠が長く離れることがない」とあるが、ここに記されてるのは先天の気の世界でのことである。そうであるから「黄金室」は特定の部位をいうものではない。真精と真神とがひとつになるところを「黄金室」とするわけである。つまり先に後天の神と気が融合しているので、それに続いて先天の気の真神と真精とが融合することになるわけである。ただこうしたことは自然に生じているので、実際の修行にあってはあえてこのような分類をする必要性はないのかもしれない。

道竅談 李涵虚(199)第二十三章 玄牝基根(解説3)

  道竅談 李涵虚(199)第二十三章 玄牝基根(解説3) この章は「玄牝基根」であるが、「基根」については「『 根基』とは汞をもって鉛を迎えて、金丹の地を作ること」であるとする。これにより心身の変容を象徴する「金丹」の地が作られるとされる。心身の変容の基本ができるというわけである。汞は「腎」であり、鉛は「心」であるから、腎をして心を迎えることになる。「腎」は肉体のエネルギーの中心とされ、「心」は精神のエネルギーの中心とされるので、汞をして鉛を迎えるとは体の状態を整えて心を鎮めるということになる。つまり「静」に導く身体運動によって心を鎮めることを汞をして鉛を迎えるといっているわけである。

道竅談 李涵虚(198)第二十三章 玄牝基根(解説2)

  道竅談 李涵虚(198)第二十三章 玄牝基根(解説2) 神を補う「物=物質」は気であり、神を養う「用=作用」もまた気とされる。神と気は絳宮(中丹田)で出会って、黄庭(下丹田)で融合する。こうしたある種の集中境地を「凝」と称する。これは自ずから生ずることであるが、絳宮での神と気の出会いにはある程度の意図的な働きが加えられなければならない。心身の「静」の状態をある程度は得ておかなければならないのである。つまり「神」を安定させようとして「神」にアプローチするのは間違いでそれは必ず「気」でなければならないことを教えてるわけである。

道竅談 李涵虚(197)第二十三章 玄牝基根(解説1)

  道竅談 李涵虚(197)第二十三章 玄牝基根(解説1) 老子が「谷神」「玄牝」をして教えようとしていたのは心身の統一であるということをいおうとしている。「 一乾一坤」「一剛一柔」とは陽と陰であり、陽だけ陰だけであると統一、融合は生じないと教えているわけでる。ここでは陰陽を融合させる秘訣として「神をして気の下に置く」が示されている。つまり「気」を鎮めることで「神」を鎮めることができるということである。瞑想で往々にして失敗してしまうのは「神」を鎮めようとするからに他ならない。「気」を鎮めるにはただ「静」であれば良い。「気」とは感情のことである。それを鎮めるには静かにしておれば良いわけでそこでいろいろな思い(神)が生じるのはとりあえずはそのままにしておいて構わない。

道竅談 李涵虚(196)第二十三章 玄牝基根(本文 下)

  道竅談 李涵虚(196)第二十三章 玄牝基根(本文 下) 「玄牝」とは一乾一坤である。一剛一柔である。そうでなければ、つまり神が活発で気が活発であるとかえって共に反発をして、互いが離れてしまうことになる。このために男をして女の下に置き、神をして気の下に置くことになる。このように転倒をして共存するのであり、それは陰陽が共に交わるということでもある。ここに神と気がひとつになり、根基が立つことになる。そうでなければつまり神はただに神であり、気はただに気であるに過ぎない。気がそのままで気であって、神がそのままで神であれば神は気を得ることはできない。つまり神を補う「物」がないということになる。気が神に帰することがなければ、つまり神を養う「用」がないとういうことになる。 元神をして長くあらせしめようとするのであれば、それを得るべきであろうか。また神が絳宮にあれば、絳宮(中丹田)はいうならば(気との融合を行うので)政治であれば実務 を行う政庁ということになる。知見見聞はすべれこれを乱すであろう。これが黄庭(下丹田)で安定すれば(凝)、そのうちに(雑念の)響きは絶えてしまうことになる。雑念は除かれるわけである。これが清養でなければなんであろうか。そうであるから『悟真篇』には「谷神を長く生かしておこうとするのであれば、玄牝によって根基を立てなければならない」とあるのである。真精がすでに黄金室に返っていれば、一粒の明珠が長く離れることがない。「谷神」とは至虚、至霊の汞性である。「真精」とは至清であり至嫩(どん)の鉛情である。「根基」とは汞をもって鉛を迎えて、金丹の地を作ることである。黄金室とは黄房のことで、これは返金の地である。そうであるから黄金室という。金鉛と木汞は交わると同時にまさに一つの明珠となる。「明珠」とは一粒の金丹である。大きさは黍粒ほどとされる。これは金が来て性へと帰する初めとなる。そうであるからこれを「還丹」と称する。「一」を得て「永」を得るので、「永く離れず」とある。まさにこのことを紫陽は詩にこう詠っている。 直ちに明らかにする。千古の真訣。 先天、後天みなまさにこれよろし。 われの言うところは先天なり。 これを後天をして論ずるならば、まさに先に玄牝を求めなければならない。そうすることで丹基を築くことができる。また「谷神」はこれによって立つことができる。つまり真性

道竅談 李涵虚(195)第二十三章 玄牝基根(解説6)

  道竅談 李涵虚(195)第二十三章 玄牝基根(解説6) 「乾坤の圏子」とは周天のことである。「乾」の「陽」と「坤」の「陰」が円環(圏)によってつながっているとする。そして、そこには「転倒の用がある」とする。周天は人が先天(生まれる前)から後天(生まれた後)へと向かっているのを「逆転」して先天を開こうとする。「牝地の卑躬(キュウ)を行う」も転倒をいう(「卑躬(ヒキュウ)は頭を下げることで、頭が上ではなく下に来ることを表している)。「玄天」から「牝地」へ至るのではなくその反対の動きをもして天地の交わりを得るわけであるが、これが「太極」の悟りということになる。

道竅談 李涵虚(194)第二十三章 玄牝基根(解説5)

  道竅談 李涵虚(194)第二十三章 玄牝基根(解説5) 「一竅」については『金丹四百字』には「神気穴」であるともしている。また「神」と「気」が共に存している「穴=竅」であり、「乾」と「坤」あるいは「坎」と「離」が共にあるともある。これは「玄牝」を「天玄」と「地牝」とするのと同じである。相対するものがひとつになっていることを教えている太極も同様で「大いなる極」とはただ反対(対極)にあるたけではなく、そこにむすびの働きがあることを示している。最も対立するものが、最も近しいものであることは武術がよく教えている。共に生きて天をいただくことのできないような者どうしが手を交えるわけである。ここに逆転の発想をして「武」は「愛」であるとする植芝盛平の武道観が生まれることにもなる。

道竅談 李涵虚(193)第二十三章 玄牝基根(解説4)

  道竅談 李涵虚(193)第二十三章 玄牝基根(解説4) 続いては先天純陽の一気を「 玄牝の一竅」とも称している。そしてこれを「『生生化化』の源」ともしている。つまり生命力の源としている分けである。これは神仙道では「腎」とされる(下丹田やヨーガのムラダーラ・チャクラも同じ)。腎を安定させるためには心が安定しなければならない。「一竅」は先天と後天をつなぐ「玄関」でもある。腎が安定することは先天の世界へ入るため、あるいは先天と後天が融合するための前提となる。

道竅談 李涵虚(192)第二十三章 玄牝基根(解説3)

  道竅談 李涵虚(192)第二十三章 玄牝基根(解説3) 「玄牝」については「天玄」「地牝」であるとしているが、これは二つであり一つでもある。また乾卦、純陽であるともいう。これは「先天純陽の一気」の発動をいうもので、ヨーガでのクンダリニーの覚醒と同じである。そうであるから太極拳の「虚霊頂勁」もそのベースとなっているのはクンダリニーの覚醒つまり先天純陽の一気を開くことにある。「玄牝」を「天」と「地」に分けるのは「地(下丹田 ムラダーラ・チャクラ)」で覚醒したクンダリニーが「天(上丹田 サハスラーラ・チャクラ)」へと至ることを言わんとしている。

道竅談 李涵虚(191)第二十三章 玄牝基根(解説2)

  道竅談 李涵虚(191)第二十三章 玄牝基根(解説2) 『老子』第六章には「玄牝」について「綿綿として存するがごとし」とある。これは太極拳の動きの奥義である「綿綿不断」と同じである。柔らかく途切れることのない動き(呼吸)が「玄牝」「谷神」を養うのである。当然のことであるが静坐においてもこの呼吸は用いられる。ただ静かに途切れることなく柔らかに行う。そうすることで本来の心の働きである「元性」が自ずから開かれることになる。この「自ずから=無為自然」というのが大切なのである。

道竅談 李涵虚(190)第二十三章 玄牝基根(解説1)

  道竅談 李涵虚(190)第二十三章 玄牝基根(解説1) ここでは『老子』第六章についての秘説が述べられている。老子は「谷神は死せず。これを玄牝という。玄牝の門、これを天地の根という」とする。これは「谷神」を「静」をして養うことであるとするわけである。また「谷神」とされるのは「先天(の気)」であり「虚霊」「元性」であるともする。太極拳では「虚霊頂勁」の教えもある。「元性」とは人の本来の心の在り方である。それが滞りのないもの(虚霊)であると考えるわけである。心がそうした状態になれば武術的な力である「勁」が全身を貫く(頂)ことになる。

道竅談 李涵虚(189)第二十三章 玄牝基根(本文 上)

  道竅談 李涵虚(189)第二十三章 玄牝基根(本文 上) 修行者は大丹、小丹にかかわらず、等しく谷神を静養して、その根本を立てなければならない。「谷神」とは「先天虚霊」のことである。人の「元性」のことである。養うというのはどこにおいて養うのであろうか。それは玄牝においてである。上陽は「玄牝とは二つのものであり、また二つではない」と述べている。それはまた万物でもあるということである。要するに「玄天」「牝地」のことなのである。またこれは易の第一の卦(乾卦)として現れるものでもある。「玄牝の一竅」を知っておかなければならない。実にこれは「生生化化」の源でもあり、道の修行に入る者は、この「生化」の源を必ず尋ねなければならない。これがつまりは「玄牝の竅」なのである。あるいは老子の言うことを引いて述べるならば、「谷神は死なない。これを玄牝という」ということになろう。ここで「谷神」を「玄牝」とするとはどういったことなのであろうか。それは「虚無の玄牝を借りて、虚無の谷神を養う」ということである。つまり「谷神」の名をして「玄牝」とするわけである。ただ、これらの名の意味にはまた説がある。『金丹四百字』には「この竅はただの竅ではない。乾坤が共に存しているのであり、神気穴と称する。内には坎離の精がある」とする。つまり玄牝はただ神を養うだけではなく、気をも養うのである。今ここで神と気が交わると玄牝が現れることになる。そうであるから凝神、聚気して二つの物が交わりひとつになる。つまりよくひとつになって乾坤の圏子をなすのである。この中には転倒の用がある。何か。上より下の「凝」を得るのは神である。その玄天の尊体をして牝地の卑躬(キュウ)を行うのである。つまり上下が泰(やす)らかに交わり、気神は和合する。『道徳経(老子)』に「天下の交わり。天下の牝」とあるのは、おそらくはこの竅のことであろう。そうであるから「天の下の交わり」としているのである。その中には柔の道がある。そうであるから「天下の牝」と言っているのである。ここにはまた玄道が存している。ために「玄牝」という。

道竅談 李涵虚(188)第二十二章 二つの孔穴(両孔穴)の法(解説6)

  道竅談 李涵虚(188)第二十二章 二つの孔穴(両孔穴)の法(解説6) 最後に『老子』が引かれている。第十四章と第二十一章である。こられらは「恍惚」という語でひとつになる。つまり静坐の境地をいっているわけである。第二十一章で述べられている「孔」の「徳」とは空間があるからそれを活用することができるというところにある。物を容れることができる一見して無為なる空間のが「孔」の「徳」である。静坐でなんら意図的なことをしない(従)でいると無為なるもの「孔徳」が現れる。恍惚とした境地が出現し、窈冥(奥深く計り知れない)たる中にエネルギー(精)の動きを感じられるようになる。こうして得られたエネルギーこそが「真」であり「信(まこと)=正しい行為」を導くのである。

道竅談 李涵虚(187)第二十二章 二つの孔穴(両孔穴)の法(解説5)

  道竅談 李涵虚(187)第二十二章 二つの孔穴(両孔穴)の法(解説5) 「両孔穴」の法は「致虚守静」「天地冥合」と関係しているとされる。「虚を致して、静を守る」とは「虚」の悟りを得ることで「静」が得られることを教えている。これは煉己の修練により「虚」への気づきを得ることで「静」が得られるとするものである。太極拳ではこれを「己を捨てる」ことと具体的に教えている。自分への過度のこだわりを捨てることが「虚」への目覚めとなるわけである。「天地が知らない内にひとつになる(冥合)」とは天地や有無などの「両孔」が自然にひとつになるということで、これは「虚」を得ることで可能となる。つまりあ「両孔」は「虚」であるので本来「ひとつ」であるわけである。

道竅談 李涵虚(186)第二十二章 二つの孔穴(両孔穴)の法(解説4)

  道竅談 李涵虚(186)第二十二章 二つの孔穴(両孔穴)の法(解説4) 「無」を上として、そこには「神徳」があるという。そうであるから「有」は下ということになる。ここでは「無」を主として「有」がそれに従属するような形になる。本来、神仙道では無は有を含み、有は無を含むとする。これは「至無」「至有」とすることができるが神仙道では「至無」をもっぱら言い「至有」に触れることはほとんどない。それは神仙道が人は大体において過度となりやすいと考えるからに他ならない。そうであるから「過度」を戒めるために「無」を特に強調するわけである。

道竅談 李涵虚(185)第二十二章 二つの孔穴(両孔穴)の法(解説3)

  道竅談 李涵虚(185)第二十二章 二つの孔穴(両孔穴)の法(解説3) 「『 上』『下』は天地である」とするのは、人体の上下は小宇宙(小太極)で、天地が大宇宙(大太極)として自身が宇宙と一体となることをいうものである。「神徳」とあるのは「道徳」と同じで、「道」は「神(意識)」を通して認識される。それを実践すると「徳」の実践となるが、それは「神」が本来有している「神徳」があるからに他ならない。これを「性」ともいう。「性」は本来の意識の働きでそれは「徳」を有するものと考える。