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道竅談 李涵虚(273)第三十二章 心身について~調息法も含む~(本文 上)

  道竅談 李涵虚(273)第三十二章 心身について~調息法も含む~(本文 上) 心は一身の主人である。神は三品(精、気、神)の上薬である。ただし、心と神は二つであるが一つのものであって、分けることはできない。老子は「人にあって神が清らかであろうとれば心が邪魔をする。人にあって心が静かであろとすれば欲がそれを妨げる。そうであるから常に欲にかかわらないようにすれば、心は自ずから静かになる。心が澄めば神は自ずから清らかとなる」と教えている。陸潜虚は「調息の法は調心から始める。凝神の法は調息から始める。これは仙仏となる手引きであり、個々人が徳に入る路である」と教えている。 道を学ぶ初めは必ず雑念を鎮めて静に帰さなければならない。行住坐臥、常に身の内に静を守ってよく努めることである。およそ念があれば妄心が働く。念が無ければ真心が開く。もしよく常日頃、念を鎮めていれば、念はその止まるべきところに還る。そうなればどのような時でも心は安定して、入定の基本が乱れることはない。聖人が「心を止めること(止)を得た後に心の安定を得ること(定)ができる。心の安定を得ることができればよく静を得ること(静)ができる」と教えているのはこのことである。

道竅談 李涵虚(272)第三十一章 真心を論ずる(解説5)

  道竅談 李涵虚(272)第三十一章 真心を論ずる(解説5) 神仙道では「一を抱いて離れることがない」とする教えがある。この「一」とは真心のことである。老子は「一」は「二」を生み、「二」は「三」を生んで、「三」は「万物」を生むと教えている。神仙道では「一」は真心、「二」は先天、後天で、「三」は精、気、神とする。先天に元精、元気、元神があり、後天に精、気、神があることからこれを「万物」とするわけである。「一」については真心のほかに祖気、沖気(老子)などと称されることもある。

道竅談 李涵虚(271)第三十一章 真心を論ずる(解説4)

  道竅談 李涵虚(271)第三十一章 真心を論ずる(解説4) 梵我一如というが「梵=大宇宙」と「我=小宇宙」が一つになった時とは、「梵」と「我」の区別が消えた時である。これを「虚空」を悟ることといている。また「了性」では「我」の真我(アートマン)である「性」を見出すのであるが、真我は通常の「我」を超えた境地である。「了性」にあっても大いなる自然と一体となったことが感得される。

道竅談 李涵虚(270)第三十一章 真心を論ずる(解説3)

  道竅談 李涵虚(270)第三十一章 真心を論ずる(解説3) ここでは頓悟と漸悟の違いについても述べている。すぐに最終的な悟りを得るのを頓悟という。これは虚空を悟るとしている。また漸悟であれば了性で、性をゆっくりと悟るとする。了性とは自分の内面にある「本来の自分」を知ることである。禅宗では頓悟も漸悟も行き着くところは同じ空への悟りであるが、神仙道では頓悟は大宇宙と一体となることであり、漸悟は小宇宙と一体となることとしている。しかし、そうしたことを超越しなければならないと西門派では教えている。これらの違いで重要なことは頓悟では「我」が無く、漸悟では「我」が残っている点であろう。

道竅談 李涵虚(269)第三十一章 真心を論ずる(解説2)

  道竅談 李涵虚(269)第三十一章 真心を論ずる(解説2) 『クリシュナムルティの瞑想録』は瞑想をして幻影を見たとか、チャクラが開いた、クンダリーニが昇ったなどのことは一切、書いていない。ただ周りの情景が美しく描写されているだけである。「これでどうして瞑想なのか」と思う人もあるであろうが、ここでクリシュナムルティが言わんとしているのは瞑想とは真心の発現に他ならないのであり、足の組み方や幻影を見ることなどは「瞑想」ではなく、それに入るための段階である瞑想「法」に過ぎないということである。つまり真心が開くことこそが瞑想であり、チャクラや小周天などは瞑想「法」であり、それにとらわれ過ぎると本来の真心が見失われることにもなりかねないことになる。

道竅談 李涵虚(268)第三十一章 真心を論ずる(解説1)

  道竅談 李涵虚(268)第三十一章 真心を論ずる(解説1) ここで述べられている真心は静坐をする上でひじょうに重要なことである。真心で表されるのは一種の「至高体験」で、あるいはこれは「宗教体験」「神秘体験」とすることもできるであろう。こうした日常とは異なる調和感、親和感のようなものが得られたら、ここに真心が開いたと考える。また静坐はこうした感覚を頼りに進めていく。興味深いことにこうした感覚は瞑想のテクニックを捨てた時に得られるもののようなのである。そうであるから瞑想「法」は必要ないともいわれるし、前段として瞑想「法」があったから真心が開かれたと解する人も居る。

道竅談 李涵虚(267)第三十一章 真心を論ずる(本文 下)

  道竅談 李涵虚(267)第三十一章 真心を論ずる(本文 下) どうするべきか。大体において初心の修行者は、俗縁の深きから逃れることができない。が、どのようなことに出会っても感情にとらわれないようにする。虚空を(そのままに悟る)頓悟することはすばらしい。(本来の自分を知る)了性を(ゆっくりと悟る)漸悟することもすばらしくないことはない。ただ修行者はそうしたことにこだわることなく、真心をして修行を始めることである。そうすれば煉己が充分でないとしても、静を求めて修行に入ることができる。どのような時でも静を忘れてはならない。そこに真心は、あるいは昼に生じることがあり、夜に生じることもある。あるいは時には失われしまうこともあるかもしれないが、そうしたら自分でそれを知って静を取り戻す。これは、つまりはこうしたとになろう。静を作るようであっても、それは作るのではないのである。 これには初心の者に適した簡単な方法があり、古い丹経にも出ている。それはちょっとした機会をとらえて静を得ていくのであり、そうして常に真(心)を守るようにするのである。日々その真(心)を抱くのである。時に日に、その真(心)を見ないことはない。それは(時々の)漸から常に及ぶことになる。長く純静を保っていれば、煉己の功は同時に煉られる。これより偉大なことはない。そうであれば心がたまたま清明である時、まさにこれは一門の中核となるの修行をするべき時なのである。良き時の流れ、良き環境に出会った時、願わくば一刻が千金に値するこうした時を軽んじないようにしてもらいたい。

道竅談 李涵虚(266)第三十一章 真心を論ずる(本文 上)

  道竅談 李涵虚(266)第三十一章 真心を論ずる(本文 上) 金丹の道は、真神、真気、真精を貴いものとして、それにより「造化(心身の変容により新たな心身が作られる)」を行うのであるが、真心が用いられることが無ければ、また真精、真気、真神も得られることはない。真心とは(淫欲などの)識念が生じていな状態での交わりであり、陰気に染まっていない思いである。修身の妙道とは、すべからく静の下に始めるところにある。修行者の煉己がいまだ純化されていない時でも、大体においてこの功を行うと、うまく行くものである。これは兵法で、相手が準備をしていない内に不意に攻撃を仕掛けるといったようなもので、心がたまたま清らかになって欲念が起こっていない時に、この功を行うのであり、そうすればすぐに効果を得ることができる。 自らは三宝(精、気、神)を閉じて(外に漏らすことなく)、凝神、調息をする。こうなると内は内に留まって外からの影響を受けることはない。この時に欲念はいまだ発せられておらず、ここで功を行えば即効が得られる。識神がいまだ用いられないのに乗じて、そこに真神を見るのである。濁気がいまだ働かないのに乗じて、その真気を養うのである。淫精のいまだ働かないのに乗じてその真精(の働くの)を待つのである。 一心に専念して、致虚を極め、守静を篤くする。そうして(先天の世界に通じる入口である)玄関のあるのを知る。ここに性命双修の第一義がある。真心の用は、どうして妙でないことがあろうか。物事の交わりがあれば、それに反応するであろう。談笑して飲食をする時、思いは心機が動くのに触れて動くが、それに従って思いを制しようとしても、内心は浮動して、雑念が生じてしまう。自分でこれを止めようと思って、止めることはできれば良いが、止めようとしてもすぐに雑念は生じてしまうものである。やってもやっても生じて止まることはない。止めようとすればする程、雑念は生じてしまう。強敵に出会った時には、目を閉じて天に任せて人と戦う。天に通じる誠がなく戦えば、ただ荒廃をもたらすのみとなろう。同様に雑念と戦っても心は廃れてしまう。

道竅談 李涵虚(265)第三十章 河車の奥義(解説5)

  道竅談 李涵虚(265)第三十章 河車の奥義(解説5) 「意」を鎮めるには目を閉じた方が良いのか、少し開いた方(半眼)が良いのか。日本の禅宗では半眼でなければならないとするが、『天台小止観』では軽く瞑目するとある。静坐でも同様であり、幻影が頻繁に出て来るようであれば半眼をとると教える。私見によれば幻影が出てしまうのは「意」が自由に動き、暴走を始めるためと考える。つまり「半眼」でなければならないとするのは幻影が出ないようにするためと考えられるが、それは自由な「意」の働きを制限することになる。僧堂などで集団で生活する場合に幻影が出るようになると周囲の人にも影響が及ぶことになり生活が崩壊しかねない。しかし真の心身の自由を求めるのであれば、軽く瞑目する静坐でなければなるまい。

道竅談 李涵虚(264)第三十章 河車の奥義(解説4)

  道竅談 李涵虚(264)第三十章 河車の奥義(解説4) 「神」は「意」を動かしているエネルギーのようなものとされる。静坐では「意」を制御することはできないと考える。「雑念を払おう」と考えるのも「意」であるからである。「意」をして「意」を制御することはできない。「意」の動きは「神」に影響を与える。神と気、精は関連しているので、「神」が乱れることで感情(気)が乱れ、体(精)に良くない影響が出るとする。心身を安定させようとするのであれば「意」をそのままにしておくことである。そうすると「意」は自ずから鎮まる。何かに集中したりするのは「意」は固定されるだけで鎮まってはいない。無理に雑念を払おうとすると禅病などと称される心身症になることがある。それは神と気、精の不調による。

道竅談 李涵虚(263)第三十章 河車の奥義(解説3)

  道竅談 李涵虚(263)第三十章 河車の奥義(解説3) 初心者が意識を内に向けるということはなかなか難しいようで、居敬窮理学派では敬字訣が伝えられている。これは心のあたりに「敬」の文字をイメージするものである。中国語で「敬」は「チン」であり「静」も同じであるので、「敬(つつしみ)」と「静」とが関連してイメージされる。そのことで心が落ち着くようになる。ただこれも必要のない人は用いることなくただ静坐をする。

道竅談 李涵虚(262)第三十章 河車の奥義(解説2)

  道竅談 李涵虚(262)第三十章 河車の奥義(解説2) イメージで気を督脈から任脈へと巡らせる「小周天」は初心者が意識を内に向けるための方法であり、これが小周天の全てではない。こうしたイメージ法を小周天の「入門」として使うのが龍門派といえよう。他の派ではただ瞑想をして「静」が得られて気の動くのを待つのみである。イメージを使っている段階では真の意味で気や神は動いていない。この段階で気や神が動いたと誤解することを「空車を回す」と称する。

道竅談 李涵虚(261)第三十章 河車の奥義(解説1)

  道竅談 李涵虚(261)第三十章 河車の奥義(解説1) ここでは小周天(河車)がイメージにより気を巡らせることではないことが述べられている。イメージで気を巡らせるのは龍門派に独特とされているが、現在では広くこれを修する人が居る。ただ龍門派にあってもイメージで気を巡らせるのはあくまで初心の方法であるとしている。重要なことはここにもあるように「 意をして内を守る」ことであり、「神を外に向かわせず内に収める」ことにあり。これを回光返照と称する。

道竅談 李涵虚(260)第三十章 河車の奥義(本文 下)

  道竅談 李涵虚(260)第三十章 河車の奥義(本文 下) これらは自然に知ることができるであろうが、「真意は中にある」とされる真意とは何であろうか。それは呼吸を調えて、内をして外に応じさせることである。この本は内にあることを知らなければならない。そうして真意は巡って、関(夾脊)を通って(頭)頂へと至る。また深い瞑想状態(隠隠)にあってまさに知ることができるのは「神」や「意」のことである。この「神」が還るのはつまりは「意」が巡らせるのである。伍(守陽)真人は「二つを共に知るのは微細な意にある」としているが、これはおそらくここに述べたようなことであろう。わたしは「神」と「意」がどうして「神」から「意」が派生するとされるのか分からない。それに「神」と「意」がどうして内と外であり、これらが応じ合うことでひとつになるのかも分からない。そうであるからわたしは本当にこうしたことについて知らないということが分かっているに過ぎない。わたしはただ自分の「意」を伏して、内を調えるのみである。ここでの「意」は分けようにも分けることができない。ただ覚守するだけである。そうしていれば内(神)は整い、外(意)は自在な境地へと至る。どうしてこれらが二つであると知ることができるのか。そうした微妙な「意」をわたしは知ってはいない。これは玄の玄たるところであり、仙人の乗る筏を浮辺て天の川へ遊び、朝の東天に日が昇るように気は上昇しその後に黄庭(下丹田)に鎮まる。機は伸びやかで、神は滞りなく流れている。快活たること限りなく、日々に気は循環して毎朝、全身に滞りなく流れて、三宮(上、中、下の丹田)に注がれる。そうして得られた薬は、そのままで用いられないということはない。こうして真気はますます盛んになる。なんとしたことであろうか世の人は河車の奥義を知ることがなく、ただ気を巡らせていて心を疲れさせているだけである。真伝の詳細を得ることなく、ただ遊びまわって迷うばかりである。

道竅談 李涵虚(259)第三十章 河車の奥義(本文 上)

  道竅談 李涵虚(259)第三十章 河車の奥義(本文 上) 河車の奥義とは得薬運行にあるのであり、イメージで気を巡らせるところにあるのではない。つまり子午の進退、陰陽のガイ闢、内外の昇降、天地自然の火候にあるのである。築基が成って金鼎が充実したら内息を調え、内神を凝めて、神と息とを協調させて、風と火をを交わらせる。そうすると忽然として霊芽が萌(きざ)し、気機が動き始めるので、すぐに河車をしてこれを煉る。河車をして下(丹田)から背中の督脈を進んで、逆流して天谷へ行って、中宮へと返る。これは得薬の時には行わなければならないものであるが、惜しむらくは今の人がこの真伝を知らないことで、多くはイメージで気を巡らせることであると思い込んでいる。こうした意味のないことをしても何ら益するところはない。ただ妙縁を得られた少数の人だけが悟りを得ることができたのであり、仙師の教えは聞き難いものである。 いま試みに河車の奥義をここに述べてみよう。その妙は意をして内を守ることにある。神を外に向かわせず内に収める。そうすれば自ずから河車はなるとするのが仙師の教えである。あるいはここに疑問が尽きることがないかもしれない。つまり真神とは真意なのであって、これらを分けることはできない。内を主とするが外も主となる。どうして内外を二つに分けることができるであろうか。こうした疑問が出るのは当然であろう。 神をして内庭を守ることを知らなければならない。これはただ「凝」を貴ぶのであって、気を巡らせることを重視するのではない。気を巡らそうとすれば必ず意を用いなければならない。周天の妙は外を動かせば、内う動いてしまうところにある。そうであるから内を動かそうとするならば必ず意をもってそれを行わなければならない。これを人に譬えるならば、灯火の前に座っていて、その影が壁に映っており、体が動くと影も動くようなものである。また声を部屋の中で発すれば、外にも聞こえるようなものである。つまり「意」とは神自身とそのお告げであれば神自身のようなものなのである。つまり「意」は影と声であるので、これらだけを見たり、聞いたりすることはない。そうであるから「意」をもってその内を動かすのであるが、その時「神」は自ずから外に現れることになる。これらは二つのことであるが一つことである。内で気を運ぶことは、外で気を運ぶことであり、他のことではな

道竅談 李涵虚(258)第二十九章 「採」と「煉」の妙用(解説6)

  道竅談 李涵虚(258)第二十九章 「採」と「煉」の妙用(解説6) 最後に「凝神」により「採」が可能となり、「調息」によって「煉」が可能となるとある。「凝神」とは自然に意識が乱れなくなる状態である。「調息」は自然に静かで途切れの無い呼吸となることである。こうした状態を続けていると心身の変容が生じる。それを「丹」を得たと称する。瞑想にしても、いろいろな教えなどでも、その多くは必要のないことである。必要のないことが多く混入するのは、そうしたものを求める人が居るからで、真実のみを語って余りに単純な教えは人々から忘れられてしまう。そして多くの余計なものを含んだ教えが後に継承されて行くことになるので、本質を知ろうとする時には注意をして吟味しなければならない。

道竅談 李涵虚(257)第二十九章 「採」と「煉」の妙用(解説5)

  道竅談 李涵虚(257)第二十九章 「採」と「煉」の妙用(解説5) 「 子(下丹田)の月を建てれば(玉液還丹)、気は昇り始める」とは「子」つまり下丹田を開けば月が動いて周天が始まることをいっている。「月」とは心・離(陽陰陽)の一陰であり、日は腎・坎(陰陽陰)の一陽である。これら一陽を一陰を動かすには、腎を活性化され、心を沈静化させなければならない。瞑想で特定のものに集中することで心を鎮めると教える人も居るが、これでは真の沈静化は起こらない。別のストレスによって違う状態になるに過ぎない。意識や呼吸は特段の操作を行うべきではない。

道竅談 李涵虚(256)第二十九章 「採」と「煉」の妙用(解説4)

  道竅談 李涵虚(256)第二十九章 「採」と「煉」の妙用(解説4) 「 地魄をして砂汞をとらえる」とあるのは「地魄」が「陽鉛」であるから「砂汞」は「陰汞」でもある。汞は腎に属するものでこの一陰は心・離(陽陰陽)の一陰である。つまり「陽鉛」開くことで「陰汞(砂汞)」を動かそうとするわけである。これは体の安定を得ることで心の安定が得られることを教えるものである。こうした方向性はインドでの専ら心の操作を行おうとするラージャ・ヨーガから、体の調整を重視するハタ・ヨーガの誕生を促したとされる流れと同じと考えることができるであろう。

道竅談 李涵虚(255)第二十九章 「採」と「煉」の妙用(解説3)

  道竅談 李涵虚(255)第二十九章 「採」と「煉」の妙用(解説3) 「 彼の家の陽鉛をして我が家の子珠の気を煉る」とあるが、「子」は子午で下丹田を「子」、上丹田を「午」とする。「彼の家」とは腎であり、腎を開いて下丹田(我が家)を煉るということである。子午とするのは小周天のルートを一日の時刻にあてるもので背中に「卯」をとって、胸に「酉」を配する。つまり子から始まり卯、そして午から酉へと巡って行く小周天の一回が一日の時刻の経過と同じとするわけである。つまり大宇宙の時間と体内の「時間」は一致しているわけなのである

道竅談 李涵虚(254)第二十九章 「採」と「煉」の妙用(解説2)

  道竅談 李涵虚(254)第二十九章 「採」と「煉」の妙用(解説2) 煉己の時には「地魄」が用いられるとする。地魄は「陽鉛」が「 外辺の至陰の中に蔵される」ものであるとされている。これは外側が「陰」でその中が「陽」である坎(陰陽陰)をいうものである。この一陽は「陽鉛」とされる。「鉛」は離卦=心を表すものであるから坎=腎の一陽(陽鉛)は心へと還ることになる。腎の安定が煉己であり、これは上虚下実となることでもある。虚という状態を作り出すことはできないので、「実」を作る。これは下半身の安定である。煉己とは「虚」を知ることのできた境地とされる。「地魄」とは根源的な生命力とすることができよう。根源的な生命力は虚を知ることで安定へと向かうのである。

道竅談 李涵虚(253)第二十九章 「採」と「煉」の妙用(解説1)

  道竅談 李涵虚(253)第二十九章 「採」と「煉」の妙用(解説1) ここでは「採」と「煉」について触れている。これらは採薬、採丹であるとか、煉丹、煉気などと使われるが、要するに「採」も「煉」も自ずから起こることであるために「採らざるの採」であるとか「煉らざるの煉」といわれるわけである。精神分析ではリビドーなどと称されるような根源的な生命エネルギーとでもいうべきものを人は有しており、それが性的な衝動から知的な活動などへと「昇華」されるとしている。「採」や「煉」はいうならば「昇華」と同じで昇華の段階に入ることを「採」とし、それを実際の行動として深めることを「煉」としている。

道竅談 李涵虚(252)第二十九章 「採」と「煉」の妙用(本文)

  道竅談 李涵虚(252)第二十九章 「採」と「煉」の妙用(本文) 「採」と「煉」についてであるが「採」とは彼の家(腎)の陽鉛をして我が家(下丹田)の子珠の気を煉ることである。陽鉛とは地魄のことであり、これは外辺の至陰の中に蔵される(腎・坎の陰「陽」陰)。そうであるから地魄という。煉己の時にこれを得る。そうであるので、これをして我の汞性を制するのである。そうであるからこれを「砂(丹砂の砂)」とする。『悟真篇』には「専ら地魄をして砂汞をとらえるには、ただ修行者は採と煉を行わなければならない。ただそれだけである」とする。 「採」とはどういったことであろうか。「採」とは採ることのない採である。何を「煉」というか。煉とは煉ることのない煉なのである。「採らざる採」とは何であろうか。これは「龍閑虎静(龍は心、虎は腎)」となることである。「雌を守って雄ならざる」ことである。子(下丹田)の月を建てれば(玉液還丹)、気は昇り始める。神は気の昇るに従って逆に鼎の中に入ることになる。つまりこうして(鼎の中に神を)引き入れるのである。これがつまりは「採らざるの採」となる。「煉らざるの煉」とは何であろうか。「彼(腎の一陽)」は「我」の家(下丹田)に居る。つまり薬とは火であり、共に融合すること久しくして、その陰が自ずから(陽に)化する。、つまりこうして陽は長ずることになる。(陽を)炉の中に積むと、自然に(動きを始めてさらに陰を陽へと化する)運化をする。そうであるから「煉らざるの煉」というのである。ただこの間は、特に凝神を続けなければならない。こうすることでこれを「採」ることが可能となる。調息をしてこれを守ることで、これを「煉」ることが可能となる。こうなると精はことごとく化して気となり、腹部が充実する。このようにして内丹が結ばれる。

道竅談 李涵虚(251)第二十八章 乾坤と坎離(解説6)

  道竅談 李涵虚(251)第二十八章 乾坤と坎離(解説6) 「後天煉己の物」も「先天還元の物」も共に「先天坎離」であるとされている。そして坎の一陽を離に入れることであるとする。またこれらは「玉液還丹」と「金液還丹」であるともいう。「玉液」「金液」とは金烏玉兎の語があるように太陽には烏(黒点)が居り、月には兎が住むとされていることを受けて「陽」と「陰」の象徴とされる。つまり「金液」は坎の一陽であり、これが離に入ると金液還丹となる。一方、「玉液」は離の一陰であるので、これが坎に入るのが玉液還丹となる。これらは同じことを坎からいったのか、離からいったのかの違いに過ぎないが、玉液還丹は「後天煉己」を用いる。一方の金液還丹は「先天還元」となる。「後天煉己」は心身に「静」を得ることである。これにより心・離が安定して腎へと向かうことで、腎・坎の一陽が動き出すことになる。その結果が「先天還元」で、これは意図をして行うことはできない。「後天煉己」の結果として自然とそうなるのである。

道竅談 李涵虚(250)第二十八章 乾坤と坎離(解説5)

  道竅談 李涵虚(250)第二十八章 乾坤と坎離(解説5) また「 後天の坎離には乾坤が含まれている」については「坎離を妙用」「乾坤の本体へと還す」としている。これは後天の働きをして先天を見出そうとするものである。後天の行動の中には先天が含まれているのであるから、後天から純陽(坎に一陽)を取り出することで先天を開くことができることになる。これを「坎離の妙用」とする。これは具体的には「回光返照」によって可能となる。自己の内面を見つめることで、自分の後天の心身を通して先天を見出すわけである。心身が「静」を得て安定することで本来の状態である「先天」が再び開いてくることが「妙用」とされるわけである。

道竅談 李涵虚(249)第二十八章 乾坤と坎離(解説4)

  道竅談 李涵虚(249)第二十八章 乾坤と坎離(解説4) 「 先天の乾坤には坎離が含まれ」とあることについて「乾坤をして鼎器」「坎離を薬物」とすることが記されている。つまり先天を「鼎器」とし、後天を「薬物」とするということである。これは後天の欲望も、先天の和合、協調の中に置いて養うということである。こうした欲望は生きていく上で必要なものでもある。しかし過度になるといろいろと不都合が生じて来る。神仙道では欲望そのものを否定することはしない。寡欲であれば良いと考える。先天によって充分にコントロールされた状態にあれば良いとするのである。

道竅談 李涵虚(248)第二十八章 乾坤と坎離(解説3)

  道竅談 李涵虚(248)第二十八章 乾坤と坎離(解説3) 後天の根源にあるのは生存欲(生存本能)で食欲と性欲が中心であるとされる。一方、先天の根源にあるのは和合、協調の働きであるとする。儒家ではこれを「仁」であるとか「孝」「忠」などとして教えた。また老子は「上善」であるとしている。先天も後天も和合の働きがあるが、後天にはそれに欲望が加わる。そうしたならば「愛」といっても争いが起こることにもなる。先天は純陽、純陰であるから永遠不壊であり、天と地のように姿を変えることなく交わりを続ける。一方、後天の坎(男)と離(女)は純陽、純陰が崩れて陰陽を互いに有して交わりを持つが、「永遠不壊」とはならなず、短い命を保つのみであるが、これを子孫をしてつなぐことはできる。

道竅談 李涵虚(247)第二十八章 乾坤と坎離(解説2)

  道竅談 李涵虚(247)第二十八章 乾坤と坎離(解説2) 西派では先天は後天を含み、後天には先天が存しているとする。そして先天が失われていない子供の頃に道を得たならば、先天を回復する修行は必要ないので、そのままにそれ(純陽)を保持して行くようにすべきと教える。このように「先天」をひじょうに重視しているのであるが、この「先天」とは何かというと、これは和合の働きであるとされている。儒家でよく使われるのは、子供が転びそうになったら、思わず手を差し伸べるであろう、その「思わず」してしまう行為が「先天」によるものとするわけである。儒教では先天とはしないでこれを「性」と称する。神仙道では「太和の気」ということもある。

道竅談 李涵虚(246)第二十八章 乾坤と坎離(解説1)

  道竅談 李涵虚(246)第二十八章 乾坤と坎離(解説1) 静坐において修行は新たに何かを身につけることではなく、失われたあるべき状態を回復することであるとする。それを「先天」と称し、子供の頃にはそうした状態が傷つけられることなく保たれていると考える。誰もが持っていた状態であるから、それを回復することはできないことではない。老子が「道」の象徴として「嬰児」をよくあげているのは、先天が保持されているためである。また先天と後天の違いについては「 坤は乾陽を包んでいるので、ここに坎が成る。また乾が坤を包むと離となる」としている。坤(陰陰陰)が乾(陽陽陽)を包むと「陰陽陰」となるので坎となる。反対に乾が坤を包むと「陽陰陽」で離となるとしているが、これは後天は陰陽を互いに有している「陰陽互蔵」の世界であることを教えている。つまり先天と後天では本質的は違いはないが、交わりがあるかないかの働きにおいて異なっているわけなのである。