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道竅談 李涵虚(245)第二十八章 乾坤と坎離(本文)

  道竅談 李涵虚(245)第二十八章 乾坤と坎離(本文) 先天は乾坤で、後天は坎離とされるが、先天の乾坤には坎離が含まれ、後天の坎離には乾坤が含まれている。それはどういうことであろうか。先天が乾坤であるというのは、童真の元陽が破れていない状態(が先天)であり、その(子供の体の)内には乾象があるために陽は破れることがない。また(体の)外は坤象があるので陰が安定することになる。こうした状態を「先天の乾坤」と称する。後天とは坎離であるが、(成人の体の)中の元陽は既に失われている。坤は乾陽を包んでいるので、ここに坎が成る。また乾が坤を包むと離となる。そうであるからこれを「後天の坎離」と称する。「先天の乾坤には坎離が含まれ」とは乾坤をして鼎器とすることであり、坎離を薬物とするということである。「後天の坎離には乾坤が含まれている」とは坎離を妙用として、乾坤の本体へと還すことをいっている。 更に知るべきは、「後天煉己の物」である。これをまた「先天坎離」と称する。これは坎を取って離に入れて、玉液還丹をなすことである。「先天還元の物」は、また「先天坎離」と称する。これは坎を取って離を化して、金液還丹をなすことである。先天、後天において坎(の一陽)を取るとは、すべからく(この一陽を)「先天」と称するのであり、特に「他家(坎)」が「我家(離)」に来るものとする。ここには(後天を使うか、先天を使うかといった)「種(つまりベースとなるもの)」の違いがあるだけである。私が思うに、先天の乾坤はつまりは「天元の薬物」なのである。また後天の坎離とはつまり「人元の薬物」である。もし童子が師に出会って、この秘訣を授けられたなら、坐して(天元の薬物である)乾坤を守って道を成すべきであろう。しかし後天に落ちてしまっているなら、乾坤が鼎器とされ(人元の薬物である坎離が使われ)ることとなる。  

道竅談 李涵虚(244)第二十七章 鼎器の奥義(解説6)

  道竅談 李涵虚(244)第二十七章 鼎器の奥義(解説6) 「金の移転」のところで述べられているのは要するに陽は陰から生ずるものでなければならないということである。それは「静」の中から「陽」が得られなければならないということであり、「陰」の鼎器は「空」でなければならないとする。ここでは「静」としないで「空」とするが同じことである。鼎器は「空」であり「虚」であるからこそ「陽」を容れることが可能となる。静坐は何かを求めて行うと好ましくない。ただ静かに坐っていれば良い。そうしているとあるべきものが現れて来る。

道竅談 李涵虚(243)第二十七章 鼎器の奥義(解説5)

  道竅談 李涵虚(243)第二十七章 鼎器の奥義(解説5) 禅の十牛図の第九は「返本還源」である。これは西派では「土」とする。ここをベースとするということである。十牛図では人も牛も消えて自然の風景となるが、これは無為自然であることを示している。そして最後は「入テン垂手」で再び俗世に還る段階であるとされる。これを「土は金を生む」として、この金(乾金)が坤に入って、乾は離に似た形となり、坤は坎に似た形となってここに後天の世界が再び開かれることになる。先天と後天の融合がなされるわけである。

道竅談 李涵虚(242)第二十七章 鼎器の奥義(解説4)

道竅談 李涵虚(242)第二十七章 鼎器の奥義(解説4) 禅でよく知られている十牛図は本来は静坐の奥義を示しているのであり、第四までが「静」を得て一陽の開くことを教えたものであった。第五の「牧牛」からは離の一陰の動きが示される。第六は「騎牛帰家」で坎の一陽は本来あるべきところである離(心)へと帰ることになる。第七は「忘牛存人」で坎(腎)の一陽は離(陽陰陽)の中に入って乾(陽陽陽)となるのでその存在が分からなくなる。純陽であるからどの陽が坎から来たか分からないわけである。第八の「人牛共忘」は牛(一陽)も人(一陰)も共に忘れられる。「人」の一陰は離の一陰でこれが坎に入ると坤(陰陰陰)となるのでどの陰が離から来たものか分からなくなる。

道竅談 李涵虚(241)第二十七章 鼎器の奥義(解説3)

  道竅談 李涵虚(241)第二十七章 鼎器の奥義(解説3) 坎離の「薬物」から乾坤の「鼎器」が得られた状態を「土」とする。五行説では「土」は「金」を生むとされる。これを「乾金」とする。それを坤に移すと、陰と陽とが共に存することになるので、結局は最初の坎離と似た形となる。つまり後天から先天へ入り、再び後天に戻ってくるというわけである。これは禅の十牛図と同じで、十牛図の「牛」は坎の一陽と神仙道では見なす。第一の「尋牛」では一陽を尋ねる。心が鎮まって行く段階といえよう。第二の「見跡」では「牛」の足跡を見つけることができる。これは「静」が深まって凝というある種の集中状態が得られた段階となる。第三の「見牛」で一陽を実感し、第四で「得牛」これを得る。ここまでが「静」を得る段階つまり「一陽」を開く段階とする。

道竅談 李涵虚(240)第二十七章 鼎器の奥義(解説2)

  道竅談 李涵虚(240)第二十七章 鼎器の奥義(解説2) 坎と離を「薬物」として、乾坤は「鼎器」であるという。「 坎を採って離に充てる。ここに金が始めに還ることになる」とするのは、坎の「陽陰陽」の一陰が、離の「陽陰陽」に入って坎は「陰陰陰」で坤となり、離は「陽陽陽」で乾となるためである。坎と離が示しているのは後天の世界で、乾坤が示しているのは先天の世界とすることができる。後天の世界では交わりによる生成が行われるが、先天の世界には交わりはない。つまり坎は「陰陽陰」で離は「陽陰陽」であるから共に陰陽を有しているために交わりを持つことができるのであるが、乾坤は「陽陽陽」と「陰陰陰」の純陽、純陰であるために交わるところがないわけである。坎離は男女に代表されるように生と死を繰り返すが。乾坤は天地に代表されるように永遠に変わることがない。芭蕉は「不易流行」を知ることが大切であると教えたが、「不易」は先天、「流行」は後天であるので、やはり物事を深く見ようとするのであれば先天、後天の世界を開く必要があることになる。

道竅談 李涵虚(239)第二十七章 鼎器の奥義(解説1)

  道竅談 李涵虚(239)第二十七章 鼎器の奥義(解説1) 易で乾卦は陽の「 ―」が三本で表され、坤卦は陰の「--」さ三本で表されるが、二つに分かれているのでこれを六段としている。そして陰は「--」で穴が空いている形であるからいろいろなものを容れることができるとする。坤の「陰陰陰」からは一陽が産まれる。これが丹法の基本であるとする。この陰とは「静」である。これを得ることで一陽である「動」が自ずから生ずることになるのである。この一陽を得ることが法功の基本となる。「静」を得るには無為自然でなければならない。集中法やイメージ法である観法などを使うとかえって遠回りになる。初期の仏教ではただ呼吸を感じるだけとしていた。静坐では気の感覚を味わうだけで良い。

道竅談 李涵虚(238)第二十七章 鼎器の奥義(本文)

  道竅談 李涵虚(238)第二十七章 鼎器の奥義(本文) 丹法にあっては乾坤をして鼎器とし、坎離をして薬物とする。坎を採って離に充てる。ここに金が始めに還ることになる。およそ坤の六段の形(で三本の線の中央に穴が空いていて六本となっているの)は、その体が虚であるためであり、これは基本的には極陰となる。そこ(純陰)に一陽来復する。乾の形は三つが連なっている。その体はすべて実である。天の勢いである盛陽(純陽)に、一陰がたちまちに生じる。天地の間にあって実であるものは他の物を容れることができない。虚であるからこそ他の物を受け入れることができる。そうであるから坤の虚にこそ実を蔵することができるのである。そうであるから乾の実を先に虚に投ずる。法功はかくの如くである。 また金の移転についても知らなければならない。これにより薬の熟す具合を知ることができる。先天の乾金を坤に隠す。この時、陰の中に陽を含むことになる。これは坎の中に一(陽)があるのに似ている。こうして(一陽は)水底に形を隠しているのであり、秘していまだ露わになっていないが、ここ(水中)にあってこそ水の中の金は現れることになる。これは兌西から月が出るのに似ている。まさに用いるべきは金なのであり、これを一つの陰陽の形に採るとすれば、これは気が有って質の無い状態である。兌(陽陽陰)に取るのは、まさに(二陽一陰であるから)坎(陰陽陰)に取るのと同じとなる。兌に産するもの(陽)は、坤に産するのである。そうであるからこれは乾父の精光そのものではない。そこに大薬を得産することはできない。 「彼」が主となることを許す。「我」は反対に客となる。「彼」を上に浮かせて「我」は下に沈む。客と主の浮き沈みはすべて鼎の中のこととなる。そうした後に鼎器を設けることを知らなければならない。この妙は空にある。陶(弘景)真人は「鼎器の中は本来は何も入ってはいない。二七の時に、乾父の精光に感じ触れて、陽気が始めて動くのである。乾鼎の中もまた本来は何も無い。採取の時、坤母の陽鉛を吸い受けて金丹が始めて凝るのである。これらのすべては空が開くことによってなされる。そうであるから、鼎器はこれを仮のものに過ぎないといわれるのである。これをして盛んなる物の器とする。それは最も妙なる奥義を語ったものである。よく知らなければならない。

道竅談 李涵虚(237)第二十六章 鉛と汞について(解説6)

  道竅談 李涵虚(237)第二十六章 鉛と汞について(解説6) ここでは「心」も「身」も共に「精」に関係していることが示されている。それは静坐が体のエネルギーである「精」をベースとして行われるものであるためである。静坐で求められるのはただ「動かないでいる」ことのみで、じっと坐っていることだけが求められる。しかし、なかなか初めは静かに坐り続けることは難しいので、短い時間だけ坐って、心身が安定したら次第に時間を延ばして行くようにする。

道竅談 李涵虚(236)第二十六章 鉛と汞について(解説5)

  道竅談 李涵虚(236)第二十六章 鉛と汞について(解説5) 「後天の半斤の子」と「先天の八両の母」は子と母の関係にあるとする。つまり先天が「母」であり、後天が「子」とするのであり、先天から後天が生ずることをいっている。「半斤」と「八両」は共に300グラムくらいで等しく「半分」であることを示している。つまり先天、後天がひとつになって円満なるものとなるということである。先天を霊的な世界、後天を物的な世界とする誤解もあるが、霊的とされる世界は後天の「神」の迷いの世界に他ならない。後天は「神」に代表される思考と、「気」に代表される感情、そして「精」で表される物質の世界で成り立っている。これに対して先天は「道」の世界で後天を支配している「法則」がそれである。この世は合理的な法則によって成り立っているのであるから「祈り」は迷いであるとする。人はただあるがままに居れば良いのであり、殊更に自己の誤れる欲望を満足させようとすることは人としてのあるべき姿ではない。

道竅談 李涵虚(235)第二十六章 鉛と汞について(解説4)

  道竅談 李涵虚(235)第二十六章 鉛と汞について(解説4) 「身」については気(鉛精)と精(鉛華)があるとする。鉛精は坎宮(腎)に見られるとされるが、これは腎(陰陽陰)の一陽のことである。そうであるからこれを兌宮(陽陽陰)に取るとしている。これは兌宮から乾宮(陽陽陽)へと向かうことを示すものである。つまり、ここでの鉛汞論は小周天を説明したものということになる。このように中国の神秘学は八卦と五行、そして十干や十二支などを組み合わせて説明しようとして、複雑な説明を展開する。こうした理論構築にはたいして意味はない。西派では心の「精」、身の「精」を設けることで「精」が重要であることを教えようとしている。

道竅談 李涵虚(234)第二十六章 鉛と汞について(解説3)

  道竅談 李涵虚(234)第二十六章 鉛と汞について(解説3) 欲望や感情は無理にこれを抑え込もうとするのも良くない。またあえてそうしたものを出すことで、欲望や感情を出し切れば自ずから納まるとする人も居るが、なかなかそうはならないもので、かえって肥大化してしまうことがある。仏教でも古くは瞑想は静かなところで行うべきとされていた。しかし大乗仏教あたりになると「空」を体得するのであるから騒がしいところでも、静かなところでも関係がない、とされるようになり、更にタントラあたりでは墓場や性的なものと関係するような瞑想に適さないところで修することでより「空」を悟りやすくなるとするような傾向も生まれたが、結局は成功することがなかった。欲望や感情は「寡」で対するのが最も良いようである。あまり過度にならないでとらわないことである。

道竅談 李涵虚(233)第二十六章 鉛と汞について(解説2)

  道竅談 李涵虚(233)第二十六章 鉛と汞について(解説2) 「心」の神の「汞性」とは心(陽陰陽)の一陰のことである。これは一般的には腎=下丹田である紫府に戻るのであるが、ここではこれが黄庭(中丹田)に納まるとする。そして下丹田には「心」の精である「汞液」が入るというのである。こうした複雑な説明になるのは鉛と汞の二つを上、中、下の丹田に振り分けるために他ならない。ただ、この説明が意味のないものではなく、心の「汞性」が中丹田に収まるとは感情と関係のある気が鎮まるということを意味している。それはまた下丹田=腎が鎮まるということでもある。腎が過度に働くことで性欲をはじめとするいろいろな欲望が発生する。これは感情を動かして心身の平静を失わせてしまう。

道竅談 李涵虚(232)第二十六章 鉛と汞について(解説1)

  道竅談 李涵虚(232)第二十六章 鉛と汞について(解説1) ここでは身体に備わっている「精、気、神」と「鉛」と「汞」との関係が述べられている。つまり「心」に属しているのは「神」と「精」で、「身(腎)」には「気」と「精」が属しているとする。ここでの特徴は「精」の扱いで、これは通常は「身」にのみに属することになっている。それは神仙道において「精、気、神」は人を動かすエネルギーであり、その粗大なものが「精」で、最も微細なのが「神」であるとされるからである。「気」はどちらかというと粗大な方に分類されるので、ここにあるように「身」に属するとするのは一般的な見方と等しい。

道竅談 李涵虚(231)第二十六章 鉛と汞について(本文)

  道竅談 李涵虚(231)第二十六章 鉛と汞について(本文) 心の中の「神」のことを「汞性」という。心の中の「精」が「汞液」である。汞性は黄庭に鎮める。汞液は紫府に鎮める。これを「龍汞」という。また「真汞」ともいい、「内丹」と呼び、「陰丹」と称する。これは「後天の半斤の子」である。 身の中の「気」を「鉛精」という。身の中の「精」が「鉛華」である。鉛精は坎宮で見られ、鉛華は兌宮で採られる。これは「虎鉛」であり、「真鉛」でもあり、「外丹」と呼び、「陽丹」と称する。これは「先天の八両の母」である。

道竅談 李涵虚(230)第二十五章 薬物について(解説6)

  道竅談 李涵虚(230)第二十五章 薬物について(解説6) 最後には「復起」について、これが房中術に属するものではないことが指摘されている。「 種鉛の法は、丁と壬の間にあらなければならない」とあるが、十干で丁(ひのと)と壬(みずのえ)の間にあるのは戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)である。つまり「土」と「金」である。五行説では土は金を生むとされる。金は「肺」であり呼吸が整うことをここではいっている。「その後、震兌を得て」とあるのは震卦(陽陰陰)は兌卦(陰陽陽)と陰陽が対になっている。震が開いてとは一陽が生じてということで、一陽が生まれることで兌の一陰も開くとする。これが震兌である。

道竅談 李涵虚(229)第二十五章 薬物について(解説5)

  道竅談 李涵虚(229)第二十五章 薬物について(解説5) 『悟真篇』に「かの『坤』のところに『体』が生まれる」とある。この「坤(陰陰陰)」は心(陽陰陽)の一陰のことである。先に触れたようにこの一陰が腎の一陽を開くので丹を得るための基盤である「体」であるとするわけである。「種は乾の家にある」とする乾(陽陽陽)は腎の一陽である。これが心の一陰と感応するのでこれを「交感宮」としている。心の一陰が「胚胎宮」で、腎の一陽が「交感宮」となる。同じことを古くは「龍が鳴き、虎が吠える」とする。龍は心であり、虎は腎を象徴する。つまり心と腎は本来的に協調し合うものなのである。それが後天の欲望により分離して疲弊して行くことになる。

道竅談 李涵虚(228)第二十五章 薬物について(解説4)

  道竅談 李涵虚(228)第二十五章 薬物について(解説4) 「 種は『我』の家の胚胎宮の中にある」とは心(離卦 陽陰陽)の一陰こそが丹を得るための「種」であるということであり、それは心の中の胚胎宮というところにあるとする。「胚胎」とは「身ごもる」という意味である。そうであるから、この一陰はまさに丹を得るための「種」であるとされているわけである。もちろん直接の「種」は一陽なのであるが、これを開くのは心の一陰であると教えている。心が鎮まることで、腎も活性化されるわけである。心は鎮めようとしても鎮まるものではない。ただ静かに坐っていれば心は自ずから鎮まる。老子も濁った水を浄化しようとするのであれば、何もしないことであると教えている。そうすると汚れは沈殿して水はきれいになるとする(濁れれるは静をもってこれをおもむろに清〈す〉ません。十五章)。これは神仙道で濁気は下降し、清気は上昇するとあるのと同じである。

道竅談 李涵虚(227)第二十五章 薬物について(解説3)

  道竅談 李涵虚(227)第二十五章 薬物について(解説3) 神仙道の呼吸は「真息」であるとか「胎息」といわれる。これは胎児の息ということで後天の欲望に乱されることのない心身の状態を象徴的に表現している。こうした呼吸(胎息)が真実の呼吸(真息)なのである。呼吸が鎮まることで心身の調和が得られる。「『 坎水(陰)』をして川の源流とするのであり、『兌金(陽)』を薬物とする」とあるように、ここでは坎の一陽を開くこととなる。「川」云々とあるのは坎(陰陽陰)の二つの陰をいう。これを「源流」とするとは腎を鎮める(陰)ということである。「兌金」を「薬物」とするとあるが、この「薬物」とは坎の一陽に他ならない。

道竅談 李涵虚(226)第二十五章 薬物について(解説2)

  道竅談 李涵虚(226)第二十五章 薬物について(解説2) 「兌金」の「金」を得るには「『 乾』に求めるのではなく、『坤』に求めるのでもない。これは『兌』に求められなければならない」とある。その理由として「坎は北で、兌は西で隣り合っている」ためとする。これは後天八卦の並び方である。兌は五行で「金」に属しているので「兌金」の「金」は五行の考え方によるものである。兌は「口」を象徴し、金は「肺」を示すとされる。つまり呼吸と整えることが重要であるとするわけである。呼吸を整えると言えば簡単なのであるが、このように八卦や五行を組み合わせて解説しようとすると複雑になってしまう。

道竅談 李涵虚(218)第二十五章 薬物について(解説1)

  道竅談 李涵虚(218)第二十五章 薬物について(解説1) ここで述べられているのは「種鉛の法」とされるものである。これは心身が協調して鎮まるというもので、心が鎮まることにより、身も整うことになる。これを腎(坎卦 陰陽陰)の一陽が開かれることで、心身の融合が生まれるとする。腎の一陽を動かすには心の一陰を開かなければならない。心は離卦(陽陰陽)でこの一陰を動かすには心を鎮める必要がある。この法は「腎」の一陽を開くためにこれを回春法と誤解する人の居ることが最後に指摘されている。同様なことはチベットのタントラ密教などでもいえるのではなかろうか。師からの教えを受けることなく残されたテキストだけを読んでいるとこうした誤解が生じることがある。

道竅談 李涵虚(224)第二十五章 薬物について(本文下)

  道竅談 李涵虚(224)第二十五章 薬物について(本文下) 坎は北で、兌は西で隣り合っている。そうであるから坎は兌に寄り添っていることになる。これを「兌金」と称する。この「金(陽)」を求めようとするのであれば、それを「乾」に求めるのではなく、「坤」に求めるのでもない。これは「兌」に求められなければならない。「乾」に求めないのは、「乾」は「種」を播くところであるからである。「坤」に求めないのは、そこが「元」を含んでいるからである。「坎」に求めないことがあるのは、「坎」には陽が有るものの水(陰)が存しているからであり、いまだ気機が現れていないからである。 直ちに「金」を「兌」に求めるのは、「鉛」の中から陽が産まれるからである。すでに「金」が現れていれば、それを「初三(陽)」とすることができる。月は庚方(兌と同じ西)に出るものである。そうであるから「坎水(陰)」をして川の源流とするのであり、「兌金(陽)」を薬物とする。ただ実際に体の中に乾坤坎兌があるわけではない。これは「有」をして「無」を生むものなのである。「我」をして「彼」を求めるものなのである。 「我(心の一陰)」は一点の陰火の精を運ぶのであるが、種は「彼(腎の一陽)」の家の中にある。つまり「鉛」の中から陽を得るわけである。陽気が一動したならこれを採取して「彼」へと帰す。また種は「我」の家の胚胎宮の中にあるので、これにより真人となることができる。『悟真篇』には「かの『坤』のところに『体』が生まれる」とある。種は乾の家にあるのであるが交感宮とはこのことである。種とは乾の種である。これを始めに播くのである。種は乾の家の種となる。これは「養育」されなければならない。 崔と張の二翁の「復起」は、愚かな考えをしてこれを解すればまさに「復起(また性器が起つ)」ということになろう。種鉛が鉛(陽)を得るとされるのはこうしたところにある。ただその種鉛の法は、丁と壬の間にあらなければならない。そしてその後、震兌を得てこれに替えるのである。我が師の口訣には「ともに知るべきは内外二薬の真機である」とある。今ここでそれを明らかにしている。我の言葉を得た者は三年にして成就を得ることであろう。これを軽視してはならない。

道竅談 李涵虚(223)第二十五章 薬物について(解説6)

  道竅談 李涵虚(223)第二十五章 薬物について(解説6) 「『壬』が最初である」としているが、十干では「壬」は九番目となる。これは「水」が最初であることをいうもので、五行説との共通性を踏まえている。五行説では「土」から「金」が生まれ、「金」から「水」が生まれるとされる。「金」については「本文下」のところで「兌金」について触れられている。ちなみにこれは八卦との関連である。坎は腎で「水」である。これに対して兌卦と乾卦は「金」に属するとされている。「金」は肺であるから、呼吸が整うことで腎の働きも活性化されると考えるのである。呼吸は「武息」「文息」があるとされるが、太極拳や八卦掌などの「武息」のエクササイズでは鬆浄(柔らかさによる浄化)が得られ、「文息」である静坐に入るための基礎ができる。これがなければ気血の流れの滞りが残っているので心身に悪い影響(偏差)の起きることになる。

道竅談 李涵虚(222)第二十五章 薬物について(解説5)

  道竅談 李涵虚(222)第二十五章 薬物について(解説5) 「 必ず『天干』をして基準としなければならない。『地支』をしてこれに次がしめなければならない」とあるのは先に述べたような大宇宙の時間と小宇宙の時間が等しいものであると考えるからである。天干(十干)は甲、乙、丙などであるがこれらと地支(十二支)の組み合わせは六十通りある。ために干支を使えば六十年を表すことができる。かつて五十代あたりで寿命を迎えていた頃にはこれで充分に年代記の記録をすることができた。ただここで述べられているような干支論などにはあまり拘泥する必要はない。中国では「真理の普遍性」が特に重視される。ある考え方が正しいことを証明するためには普遍性を説くことが重要であると見なされていた。そうであるから自然界のいろいろな現象に遍くその考え方が通用し、また古典文献にもそうした考え方を見出すことができなければならないとされた。そうした中にむやみな付会が行われて、かえって迷信に陥ることが多くなったのである。

道竅談 李涵虚(221)第二十五章 薬物について(解説4)

  道竅談 李涵虚(221)第二十五章 薬物について(解説4) ここでは子や亥などの十二支も出てきている。これは頭を「午」、会陰を「子」として背中の中心を「卯」、胸のあたりを「酉」とする人体観によっている。 「『子』の先にあり、一陽の元でもある」とあるのは、小周天で子(会陰)から丑、寅、卯と背中を上っていくのであるが、「その先」とは子の前の亥となる。気海などがこれにあたる。気海はまた下丹田でもある。下丹田から「一陽」が産まれることをここでは言っているわけである。十二支は時間の単位として用いられるが、これは一日で天を一周する周天の考え方によるもので大宇宙としての一日の時間と小宇宙としての人体が等しいものであることを象徴している。  

道竅談 李涵虚(220)第二十五章 薬物について(解説3)

  道竅談 李涵虚(220)第二十五章 薬物について(解説3) 後天の「真鉛」については「癸(みずのと)を棄てて壬(みずのえ)を取る」ものとしている。これは腎・坎(陰陽陰)の二陰を癸として、一陽を壬とする考え方である。そしてこの一陽が真鉛ということになる。そのことはまた「陰の中に陽を蔵する」といわれることもある。「天一」とは「真陽」のことで「真鉛」と同じである。これは腎を安定させることを教えているが腎を安定させるには「上虚下実」でなければならない。坐禅では法界定印を用いて親指の先を軽く触れ合わせるが、神仙道では両手を重ねるだけである。これは「上虚下実」を得て腎を安定させるために他ならない。「上虚」は「下実」によってこそ得られる。そのためには結跏趺坐(神仙道では双盤座)か半跏趺坐(単盤座)で「下実」を作り、手などにストレスをかけないようにして「上虚」を得る。ちなみに禅でも白隠流といわれる座法では手を重ねるだけである。

道竅談 李涵虚(219)第二十五章 薬物について(解説2)

  道竅談 李涵虚(219)第二十五章 薬物について(解説2) どうすれば不老不死を得ることができるのか。それは天地と共にあれば良い。自然と一体であれば良いと考えられるようになった。つまり不老不死と自然との一体とは同じものと見なされるようになるのである。これを達成するためにいろいろな「薬」が作られたがいずれも失敗であった。しかし自然と一体となった感覚は静坐によっても得られることが知られるようになる。そして静坐による自然との一体が修行の目的となり不老不死の幻影は次第に影を潜めることとなる。はじめに不老不死の薬の無いことが分かり、次いで不老不死も不可能であることが分かり、そして静坐による心身の調整が現在残ったのである。

道竅談 李涵虚(218)第二十五章 薬物について(解説1)

  道竅談 李涵虚(218)第二十五章 薬物について(解説1) 神仙道で心身の変容を「薬(物)」に象徴させていうのは、かつて不老不死を得るために水銀を含んだ薬を服用していた時代があったためである。しかし長い期間に多くの人がそうした類の薬を服用して水銀の中毒となってかえって早くに死んでしまうことが多発した。結果として不老不死の薬を作ることはできないことが分かった。西洋では非金属を貴金属に変容させることができれば、ある種の究極的な智慧が得られて世界を自分の思い通りにできるとする錬金術があった。一方、中国の錬(煉)丹術は不老不死を得ることを目的としたもので、俗世を豊かに生きることよりもその超越を目指したのであった。

道竅談 李涵虚(217)第二十五章 薬物について(本文上)

  道竅談 李涵虚(217)第二十五章 薬物について(本文上) 「薬物」とは何か。上陽は「薬物というのは薬という物を使っていたからである」と述べている。薬物には小薬と大薬がある。道には先天と後天がある。後天とはつまり小薬のことであり、これは結丹に用いられる。先天は大薬であり、これは還丹に用いられる。後天の薬は無形、無質のものであるが存在はしている「有」のものなのである。先天は有体、有用のものであるが存在はしていない「無」のものとされる。 後天は「真鉛」で「癸(みずのと)を棄てて壬(みずのえ)を取る」ものであり、「陰の中に陽を蔵する」ものであって、「無をもって有を生じさせる」ものなのである。『悟真篇』には「三元、八卦はどうして壬を離れることがあろうか」とある。「三元」とは精、気、神である。「壬」とは天一の生ずるところである。「子」の先にあり、一陽の元でもある。およそ「壬」「癸」は共に「坎」「北」に存している。「水」であり「陰」に属している。「壬水」はつまり陰の中の陽であり、「癸水」は陰の中の陰である。また「壬」「癸」は「干」であり、「亥」「子」は「支」である。「真鉛」を求めようとするのであれば、必ず「天干」をして基準としなければならない。「地支」をしてこれに次がしめなければならない。それは「天」は「地」に先んじて存しているからである。 つまりこれは「壬」が最初であることをいうものに過ぎない。無思、無慮の始めであり、動は静に先んじている。「子」はつまりは有知、有覚の時であり、静から動に向かう時である。癸陰は用いることが無く、亥未は陰を脱する。これらはまた用いられることのないものでもある。小薬の法を求めるのはこの時である。しかし先天とはそういったものではない。薬が産まれるのは坤であり、種は乾に存している。これは「有」をもって「無」を生ずるということである。「我」をもって「彼」を求めるのである。つまり乾金は坤に入るのであり、これを「坤中の金」という。そうなると「坤(陰陰陰)」が(一陽の金を受けて)「坎(陰陽陰)」となる。これを「水中の金」という。  

道竅談 李涵虚(216)第二十四章 「中」の意味(解説6)

  道竅談 李涵虚(216)第二十四章 「中」の意味(解説6) 「玄微」は静坐の奥義である。「有欲」でも「無欲」でもそうした状態を子細に観察することが重要であるということである。「有」にあって「竅」を観るようなテクニックによる瞑想でもその状態を子細に観察することでビジョンのとらわれから脱することが可能となる。「無」にあって「妙」を観たとしても、それに固執してはならない。その状態を微細に観察してとらわれの生ずることのないようにしなければならない。

道竅談 李涵虚(215)第二十四章 「中」の意味(解説5)

  道竅談 李涵虚(215)第二十四章 「中」の意味(解説5) また「玄関の一竅」や「有無の妙竅」ということも示されている。これは「有」と「無」が本来は一つであるという観点を教えるものである。「一竅」と「妙竅」は同じで、たんなる「竅」ではなく、無為自然の中で生じる「竅」であることを意味している。これは「妙」を観ようとするのであれば「有」を使わなければならないという必然を認めなければ真の意味で「妙」を得ることはできないということである。静坐においても何らかの技法や参考とする思想などを欠くことはできないのである。